7/29 私たちの「切なさ」を超えて…


今回の「わたしのエマオ」では、片山はるひ先生が
あの有名な「種蒔きのたとえ」についてお話をしてくださっています。

イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。
「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のある者は聞きなさい。 」
(マタイ13:3~9)

冒頭なのですが、
先生が、「このたとえ話を聞くと、切なくなってしまいます。」
と語られていた事が強く印象に残っています。

確かに、このお話で描かれている光景は結構シビアというか、
私がもし、この土地のどれかだとしたら、あまり良い土地とは思えない…
という印象が湧いてしまうのですよね。

ただ、先生自身そのような思いを抱えつつも、
このたとえ話で私たちが注目すべき点は、
本当は全く違ったところにあることを語られています。

確かに自分の現実は、荒れ果てた土地に過ぎないかもしれない。
茨やら余計なものが生い茂ってダメダメであるのかもしれない。
それは確かに私たちの現実。

でも。
主イエスが語る福音にはその先がある。

なかなかその恵みの本質へと踏み込めない私たち。
今回は、先生の柔らかな語り口に導かれながら、
その奥の奥へと、共に歩みを進めたいと願います。

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