『存在を賭けた言葉』を語り続けて(再掲)



 日本語放送開始70周年記念番組 シリーズ「ひとりと出会う」 
加藤 常昭(日本基督教団隠退教師・神学者)お相手・長倉 崇宣
10月15日(土)放送「『存在を賭けた言葉』を語り続けて」

FEBC月刊誌2022年10月記事より

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 1977年に番組『聖書をあなたに』が始まってすぐの頃だったと思いますが、番組宛の手紙を見せて頂きました。工場で働く若い工員からの手紙でした。彼はたまたまFEBCを聴くようになったそうですが、その時、工場の寮に住んでいたとありました。そして当時、私の番組がやっていたのは土曜日の夜で、その寮ではちょうど酒盛りの最中だったようです。その中で聖書の放送を聴いているとからかわれるから、寮の屋根に登ってラジオを抱えて一人で聴いていると書いてあった。この方は教会に行ったことがなくて、FEBCで初めて聖書の話を聴くようになって手紙をくれたんですね。これは私にとって大きかった。マイクの向こうに、屋根の上でラジオに耳を傾けている若い工員の姿をイメージ出来た時に初めて、聖書を語るということはたった一人に向かって心を注いで語ることだと分かったのです。

  後に、『愛の手紙・説教』という本を出したのですが、私にとってラブレターとして説教を語るということの経験の一つは、やはりFEBCにあります。説教というのはパーソナルなものなんです。喜んだり怒ったり泣いたりする私そのものが言葉化するんです。ですから、誰が語っても同じという訳じゃなくて、例えば、加藤は加藤の存在を賭けて語っている。だから、FEBCを聴いている方は、ただ漠然と聖書の話を聴いているのではなくて、当然ですが「〇〇司祭」の或いは「△△牧師」の説教として聴いておられるんじゃないでしょうか。

  FEBCは短波から始まり、AMラジオ、今ではコンピューターで聴けるようになりました。色んなことが変わりましたが、しかし、この「ひとりの魂に呼びかける」という基本は変わらない。そのように御言葉を届ける任務が、FEBCにはある。  その上で、FEBCはもっと若々しくあって欲しいですね。「FEBCは70年になった」なんて言っても、FEBC自体が古びたものになってはいけないと思います。FEBCで語るというのは、とても楽しいことなんですから!

 (文責・月刊誌編集部)

 


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