隠れなき私


日曜礼拝番組 全地よ、主をほめたたえよ 
日本基督教団石動教会 井幡清志牧師

9月30日(日)放送 「隠れなき私」マタイによる福音書2章1~11節

FEBC月刊誌2022年10月増刊号記事より

・・・

彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。 (マタイ2:9~11)

 

はるか東方から占星術の学者たちがやってきた。
新しく生まれたユダヤ人の王を訪ねるために。

その学者たちを迎えたエルサレムと王ヘロデ。
彼らは不安に陥りました。

 人間は、兎角、変化というものに対して不安を感じるところがある。自分の外から来るいろんな力や、考え方や、価値観というものが迫ってくると、不安になることが確かにある。自分の生き方や考え方が何か揺さぶられるようなことを恐れるということかもしれません。   

 しかし、たとえ今が一番最高だと思っても、それがずっと続かないことを私たちは知っています。だからこそ、揺さぶられるような思いになるのかも知れません。 つまり、変わることが不安だという時、それはすでに今の姿の中に不安を抱えているということではないか。 

  確たるものが、自分の内にないからです。

  その意味でこの学者たちは、大きな変化に自ら踏み出しています。何せ、自分たちのことを異邦人と卑しみ蔑むユダヤの人たちの元にわざわざ来たわけですから。

  そして、この人たちは、イエス様にお会いし、献げ物をしました。 黄金、乳香、没薬。この3つには、象徴的な意味合いがあると言われています。しかし、これらの献げ物よりも、学者たちが「宝の箱を開けて」という聖書の一言に目が留まったのです。

  「宝の箱」。それは、大事なものを納めた箱ということでしょう。たやすく開けたり閉めたりはしない箱。その中のものが傷ついたり、失われたりしないように、大事に納めて保管しておくようなものではないでしょうか。

  そういう宝の箱を学者たちは、初めて会った、しかも幼い子供のイエス様の前で開けたんです。そういう姿を思い浮かべた時に、私はなるほどなと思いました。

  イエス様の御許に来る。あるいはイエス様にお会いする。そして、そのイエス様の御側に身を置くということは、人が自分の持っている宝の箱を開けうることなんだ、と思ったのです。聖書はそれを象徴的に見ているのではないかと。人に見られないように、自分の中に抱えているもの。心の内に秘めているもの。私たちは、いわば宝の箱というべきものを持って生きているのだと思うんです。

  自分の内に大事に抱えているものがある。願いや想い、あるいは志かも知れない。人は、それらを自分の中に温めるようにして、ずっと抱えて生きている。

  それは決して良いものばかりとは限りません。たとえば、ある人たちが言うように、学者たちが箱に収めていたものが、占星術に欠かせない貴重な道具だとしたらどうでしょうか。占いは、星の動きを見て、この世界や人の歩みに、少しでも光を灯そうとする試みです。それは裏を返せば、この世は占わなければならないほど、生きることに悩みや恐れがあるということでしょう。それらの道具は、人の恐れや不安の象徴でもあると言えます。同じように私たちも、深い恐れや悩み、そして不安を自分の奥に仕舞い込んで生きているのではないでしょうか。

  最近のNHKの朝のドラマで、東日本大震災での経験が根底にあるものがありました。そこには、大きな津波の際に味わった経験から、心の深いところに傷を負って、言葉にならない重たいものを抱えながら、その後の人生を歩んでいる若者たちの様子が描かれていました。その心の内というのは、何年も何年も、時間が経っても、家族や友人相手さえも、なかなか開くことができない。しかし物語の最後には、その心の内に抱えていたもの一つ一つが解きほぐされ、開かれることによって、歩み直し始めていく姿が描かれていました。

  今日のこの学者たちもまた、仕舞い込んでいた箱をイエス様の前だから開けたのかも知れないと思うのです。 

 このドラマでは、主人公には妹がいて、地震の時は祖母と二人で家にいました。そして、彼女は祖母を連れて何とか逃げようとしたのだけど、祖母がどうしたって逃げようとしないのです。ついに津波が迫ってくるのが見えた時に、その妹は祖母を置いて逃げました。そうするしかなかった。しかし、彼女はその自分を絶対に許せないのです。ドラマの終盤に近づいたところで、妹がそのことを初めて姉に話したんですね。姉は、妹の心の傷を何とか受け止めたいと願い、後日振り絞るように「あなたは悪くない」と伝えます。そして私は、この二人の姉妹の会話をテレビで見ながら、もしイエス様がここにおられたら、なんて声をかけられるのかなと考えたのです。

  「安心しなさい。あなたの罪は、私が引き受けている」。

  イエス様は、私たち、人の罪を、ご自分の身をもって、その命を投げうって、償ってくださった。あなたが自分を許せなくても、神はあなたを許される。そう仰って、イエス様は断固たる一歩を踏み込まれたんですよね。

  学者たちが宝の箱から献げた黄金、乳香、没薬。けれども聖書には、その宝物がどうなったかなんてことは全く出てきません。イエス様にとっては、それは使い道のないものだったのかも知れません。少なくとも今は、馬小屋に眠る幼子です。幼子には、黄金も乳香も没薬も無用のもの。では、これらは誰の必要のためであったのか。それは、むしろ献げる者たちのためのものだったのではないか。今、ここで宝の箱を開けることは、彼ら自身の心の内を開くことではなかったか。私は、ふとそう思いました。なぜなら、私たちもそうだからです。

  これまでの人生で、自分の役割を果たしたり、何かを守ったりしてきた大切なものが、「宝の箱」に入っている。それをパアッと開いて、取り出して、イエス様にどうぞとそこに置いてきたのです。イエス様に明け渡したのです。それが奪われるとか、失われるということを恐れること無く、開き、取り出すことができる。心の深いところにある悩みや傷、そういものが入っている箱さえも、開くことができる。何かをずっと抱え込んで、仕舞い込んで、自分でも見たくない、忘れようとしているものでも、それが重荷になっているとしても、イエス様の御許では、それを開くことができる。なぜか。それは、開いても大丈夫だ。変化があっても大丈夫だと私たちが信頼しているからです。イエス様は、そういう人生を与えて下さる御方なのだと思います。

  これは、何か立派な献身というようなことではなくて、そうすることでしか表すことのできない平安を、イエス様のもとに見つけたのだと思う。それが、イエス様の御前という場所です。それが、イエス様の御側で生きる人に与えられる恵みなのだと思います。

 (文責・月刊誌編集部)

 



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