死から命へ起こす声


 日曜礼拝番組 全地よ、主をほめたたえよ 
日本キリスト教会高知旭教会 青木豊牧師
10月2日(日)放送「死から命へ起こす声」マルコによる福音書5章35~43節

FEBC月刊誌2022年10月増刊号記事より

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会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、 しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」 (マルコ5:22~23)

 この箇所の前のところでは、すでに宗教的指導者が主イエスに反発して殺そうと相談し始めたことが語られています。ですから、会堂長であったヤイロが主イエスの許へ行くことは、自分の立場を危うくさせるかもしれなかった。けれども、何もかもかなぐり捨てて、主イエスの足元にひれ伏したのです。なぜなら、彼の娘は12歳で、これから人生が花開こうとする、その矢先に命が終わろうとしているからです。

そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。 (5:24)

 主イエスは、ヤイロと一緒に出かけました。つまり、全存在をもってヤイロの切なる願いにお応えになったのです。ところが、その途中で一つの事件が起こります。

 12年間も出血が止まらない女性が、群衆に紛れて主イエスの服に触れた。そうしたら癒やされたのです。しかし、話はそれだけでは終わりません。

イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。 そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」 しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。 (5:30~33)

 主はどうしても、この女性と話をしなければならないと考えたようです。ですから、この女性は恐ろしさに抗うように、一歩前に出ました。そして、12年間の病気の苦しみ、医者に期待をかけては裏切られる苦しみ、また病気ゆえに宗教的にも汚れた者とされた深い孤独、その思いを全て話したことでしょう。

 しかしこの間、ヤイロは気が気でなかったはずです。そして、まさにここで、恐れていたことが起こりました。

イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」 (5:35)

 ヤイロは、もしかしたら娘を癒やしてくれるかもしれない、その一心で主イエスの許にやってきました。けれど、その願いは叶わなくなった。だから、この使いの言葉にヤイロの思いが表されているかのようです。

  「もう娘は死んでしまったから、来て頂くには及ばない。」これは「あなたと私の関係は、もうおしまいです。」あえて言えば、こういうことではないでしょうか。彼は愛する娘を救うためにこそ、自分の身を投げ出して主イエスのところに来たのです。娘を失った今、主イエスとの関係を見いだせるはずがありません。

 そして、12年間の出血の病を癒やされた女性の心と重なるのではないかと思う。この女性も癒やしを願っていた。そして、願いは叶えられたのです。しかし、そのことがこの女性に恐れを引き起こした。恐らく、誰にも分からないように去っていこうとしたんじゃありませんか。これは私たちも分かることです。

 しかし、ご自身との関わりを見失った者に、主イエスが語る言葉を聖書は伝えています。

イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。 (5:36)

 「その話をそばで聞いて」は元の言葉では「その言葉を聞き流して」という意味にもなります。「あなたとは関係がない」という主イエスを拒む言葉を、主イエスは聞き流した。そこで、ヤイロが何と応えたのか聖書は何も語っておりません。ただ、主イエスはご自分から、ヤイロの家に向かっていきました。ヤイロは、恐らく何も考えることができず、ただ主イエスの後にくっついて行ったんじゃないかと思う。この時、ヤイロは自分は本当に無力だと思ったでしょう。どれほど娘を愛していたとしても、どうしても自分には出来ないことがある。死を前にしては誰でもそうでしょう。

イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。 そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。 (5:40、41)

 主イエスはここで、三人の弟子たちだけを連れて行かれたと聖書は語っています。彼らは、大切な場面を謂わばスポットのように見せていただいている。しかし、その時には気付かなかった。主がなさったことを本当に知ったのは、主の十字架においてです。

 主イエスは仰った。深い愛をもって。
 「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」と。

 マルコによる福音書は、この主イエスの言葉を「タリタ、クム」そういうアラム語で書き記しております。私は若い頃は分からなかった。どうしてアラム語のまま書き記されたのかと。この大切な言葉を呪文のように信じてはいけないのです。なぜなら、その時少女に言っただけではないからです。私たちに対しても、主イエスが、この世界が完成し再びおいでになる時—私どもの殆どは死んでいるでありましょう—一人ひとりに向かって、名前を呼んで、「起きなさい」そう言って下さるのです。そうです。私どもと主イエスの関係は切れることがありません!

 12年。それは長血の女性にとっては苦しみの日々でした。この女性が癒やされても、そのまま主イエスの許を去っていたら、どうであったでしょう?

  12年。ヤイロにとっては愛する娘との日々です。しかし、その日々を断ち切る死を前にして、この人は諦めた。もうこれでおしまいなのだと。しかし、主イエスはその声を聞き流される。聞き流して、先に歩いた。そして、娘を死から呼び起こしなさいました。

 主イエスの奇跡は愛の印です。だから、ヤイロは深く知ったと思います。娘に対する自分の愛情を注いだ日々が無駄ではなかったと。この自分と娘は、主の愛の中で生かされるのだと。

 だからこそ、主イエスは私どもに求めておられる。
 だからこそ、主イエスは聞き流される。
 そうして、「恐れることはない。ただ信じなさい」と語られるのです。

 (文責・月刊誌編集部)

 



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