神が共におられなかったら

増刊号  日曜礼拝番組 全地よ、主をほめたたえよ 
日本ホーリネス教団東京中央教会 錦織 寛牧師
10月16日(日)放送「神が共におられなかったら」ヨシュア記7章1~15節

FEBC月刊誌2022年10月増刊号記事より

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主はヨシュアに言われた。「立ちなさい。なぜそのようにあなたはひれ伏しているのか。イスラエルは罪を犯した。私が命じた契約を破り、滅ぼし尽くすべき捧げ物に手を出し、盗み、欺いて自分たちの持ち物の中に置いたのだ。だからイスラエルの人々は敵に立ち向かうことができず、敵に背中を向けることになった。自分が滅ぼし尽くすべき捧げ物となったからだ。もし、あなたがたの中から滅ぼし尽くすべき物を一掃しないばらば、もう二度と、私があなた方と共にいることはない」。 (ヨシュア7:10~12 聖書協会共同訳)

 イスラエルの中でたった一人、アカンという人が罪を犯しました。敵からの分捕りものを自分のものとしてはいけないという神様の言葉に背いたのです。アカンのこの罪のため、36人もの同胞が命を落とし、民全体が敗走するに至ります。しかし、それでも彼は自分の罪を隠し続けます。やがて、くじにより民の前で彼の罪だと明らかにされ、彼は死ぬことになります。そして、神様はもう一度イスラエルを回復して下さったと聖書は語るのです。この話を聞いて、皆さんはどう思われるでしょうか。

 私たちは決してアカンのことを笑うことは出来ません。アカンが死ななければならなかったとすれば、すなわち「滅ぼし尽くすべきものを一掃しないならば」と言われたら、本当に滅ぼされるべき者は私ではないのかと思えてくる。そうだ、本当に滅ぼされるべきなのは私だと。

 この出来事があってから、数百年後にイスラエルにホセアという預言者が現れます。ホセアは、この時のことを人々に思い起こさせ、こう言うのです。イスラエルの皆さん、覚えているでしょう。アカンが石で打たれて滅ぼされて、その谷は、災い(アカル)をもたらすという意味の「アコルの谷」(ヨシュア7:25)と言われたと。しかし、驚くべきことをホセアは告げます。やがてその「アコルの谷」が「望みの門」と呼ばれる時が来るとホセアは言ったのです(ホセア2:17)

 皆さん、私たちは、罪の故に神様に顔向けは出来ない、近づくことは出来ない、神様が共にいてくださるはずはない、アカンと同じように死ななければならない存在です。それを忘れてはいけない。

 私たちの罪を、滅ぶべき私たちの身代わりとなって死んで下さった御方がおられると今改めて聞いて、「ふーん、そうなんだ。誰かが身代わりになる?いいんじゃない」とあなたは思われますか。よく考えて下さい。その身代わりは、罪の無い存在でないといけないのです。罪ある人は、もともとその人自身が滅ぶべき存在なのですから、他人の罪をどうこうするなんて出来ない。罪を身代わりになって負うことが出来るのは、罪のない御方だけです。神様の独り子、罪の無い神の子。イエス・キリスト。この御方だけが、滅ぶべき者となることが許された。それゆえ、十字架の上で苦しみ、十字架の上で私たちの罪を負って死んで下さったのです。

 ホセアは、「アコルの谷」が「望みの門」になると言いましたけれども、イエス・キリストにおいて、呪われるべき「災い」が「希望」となった。「あなたと共にいる」という希望です。だから、どうぞ神様の前に悔い改めるべきことが示されたのなら、それを自分の心の中にずっと隠していないで、神様の御前に差し出して下さい。そこで、神様の贖いを、あなたの救いを、神様を信頼してしっかりと握って下さい。神様は、私たちを救い、必ず私たちと共にいて下さいます。

 (文責・月刊誌編集部)

 



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