神は生きておられる。私たちはどうか?


「ちいろば牧師・榎本保郎説教選」(再)
榎本 保郎 牧師(日本基督教団元牧師、アシュラムセンター元主幹)
11月15日(火)放送「あなたは神の国から遠くない」マルコ12:32~34

FEBC月刊誌2022年11月記事より

・・・

復活ということはないと主張していたサドカイ人たちが、イエスのもとにきて質問した、 「 (中略)…復活のとき、彼らが皆よみがえった場合、この女はだれの妻なのでしょうか。七人とも彼女を妻にしたのですが」。イエスは言われた、「あなたがたがそんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではないか。 彼らが死人の中からよみがえるときには、めとったり、とついだりすることはない。彼らは天にいる御使のようなものである。 死人がよみがえることについては、モーセの書の柴の篇で、神がモーセに仰せられた言葉を読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』 とあるではないか。 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」。 (マルコ12:18~27)


復活体験からしか始まらない

 サドカイ派の人たちは、進歩的な知識人で、宗教的な議論に長け、復活はないと主張していた。けれども、それに対してイエス様は、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。」(マルコ12:27)と言われました。これは生きている—つまり具体的なところで私たちを助け、慰め、私たちに迫って下さる神様だというのです。この神様は議論の対象ではないということです。


 「神の力をあなたがたは知らない」(12:24)とイエス様はここで言われています。それは、イエス様がカルバリの山で十字架について下さったのは私のためだったということを議論で納得するのではなくて、あの十字架は私の罪の贖いとなったんだという、神様に圧倒された経験が、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」(12:26)というものだと思います。信仰とは、そういう原体験がなければ、ただ議論を楽しんでいるだけになるかもしれません。


神と生きる決断

 この前、台湾に行った時に、台湾の長老教会が当時の国民党政府の批判をして、各教会の礼拝で声明文を読むということになったんです。しかし、読む教会と読まない教会があって、読んだ教会に警官や憲兵がやってきたり、牧師が引っ張られたりと非常に大きな問題が起きました。私はそのことは一体どうなりましたかと尋ねたのですが、一人の牧師が「先生、それはお聞きにならん方がいいですよ。日本に帰れなくなりますよ」と言うのです。私はこの中に、日本でキリスト教信仰を持っている者のひ弱さというものを感じた。キリスト者として、今どう生きるか—それは議論ではなく、キリストがその人にとって誰かということが問題だからです。

 また、私の友人がある時、網走の刑務所へ行って、そこの囚人とちょっと文学をひねったような話をしたそうです。そうしたら、死刑の宣告を受けた人が、「先生、私らは神様を疑う余裕がないのです」と言った。そこに立っている者にとっては、イエスの十字架にすがるより他にしょうがないんです。

 神は死んだ者の神ではない。議論の対象としての神ではない。抽象された世界の神ではなく、具体的な世界の神、そこで生きていらっしゃる神だということです。


 そして、さらに続く28節から34節までの、ある律法学者が最も大切な戒めは何かとイエス様に質問し、神と隣人を愛せよとのイエス様の答えの正しさを受け止めた箇所では、イエス様はその律法学者に「神の国から遠くない」と言われました。これは神の国は、段々と近づいてくるものではなくて、悔い改めたらそこにあるという世界だということです。むしろ、あなたは実によく物事を知っているけれども、そういう意味では遠くないけれども、近くに来ているからといって入ったことにはならない。映画館のそばまで行って帰って来ても、それでは映画を見たことにはならんわけですよね。ですから、神の国というのは入らなければ、遠いとか近いとかは問題ではないわけですよ。神の国というのは距離ではない。あるいは知っているということでもない。イエス様が私たちの決断というものを促されているんです。

 (文責・月刊誌編集部)

 



 月刊誌「FEBC1566」購読申し込みページへ>>