「その時、主はいったいどういうお顔をなさっているか。」


平野克己先生の「喜び、ここにはじまる―マルコによる福音書」
今回はマルコ3章。主が会堂で癒やしを行われた箇所からお話されています。

イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。(マルコ3:1~6)


多くの場合、最初にこの箇所を読んで目につくのは
ファリサイ派の人たちの残忍さではないでしょうか。
「片手の萎えた人」を罠の様に利用し、主イエスを訴える機会を伺い、
そして殺害の相談まで始める
何ということだろうか!と思わされます。

しかし、平野先生は、

「その時、主はいったいどういうお顔をなさっているか。」
「(この箇所を執筆した)マルコは、ここに出てくるファリサイ派の一人ひとりが、
 あなたと重なり合うことに気づいて欲しいと願っている」

そのように語られ始めるのですね。

そして、主イエスがどのように行動されたか、
どのような御思いがそこにあったのかということを
じっくりと思い巡らせ、深めていきます。
まさに、その会堂に自分も座していたかのように。


私達も、先生の導きによってこの会堂に足を運びたいと願います。
そして主イエスが私達に向けられている御顔、
その表情は一体どのようなものであるのかをご一緒に仰がせてください。
本文にあるように、悲しみであるのか、怒りであるのか。それとも…

ぜひ、放送をお聞きくださり、
この主のみ前に、共に出ていくことが出来ましたら幸いです。


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