クリスマスの喜び


マルチン・ルターの『キリスト者の自由』(再) 
徳善 義和(日本福音ルーテル教会牧師、日本ルーテル神学校名誉教授)
石居 基夫( 日本福音ルーテル教会牧師、ルーテル学院大学学長)
吉崎恵子(FEBCメイン・パーソナリティ)
12月2日(金)放送 第3回「マルチン・ルターの 『「マグニフィカート」ーマリアの讃歌』」

FEBC月刊誌2022年12月増刊号記事より

・・・

「わたしの魂は主をあがめ、
わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
身分の低いこの主のはしためにも
目を留めてくださったからです。
今から後、いつの世の人も
わたしを幸いな者と言うでしょう、
力ある方が、
わたしに偉大なことをなさいましたから。
その御名は尊く、
その憐れみは代々に限りなく、
主を畏れる者に及びます。
主はその腕で力を振るい、
思い上がる者を打ち散らし、
権力ある者をその座から引き降ろし、
身分の低い者を高く上げ、
飢えた人を良い物で満たし、
富める者を空腹のまま追い返されます。
その僕イスラエルを受け入れて、
憐れみをお忘れになりません、
わたしたちの先祖におっしゃったとおり、
アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」
(ルカによる福音書1:47~55) 


   これは、イエスの誕生の予告を受けたマリアが、親族であるエリサベトを訪ねた際に歌ったもので、「マリアの讃歌」と呼ばれ、教会の伝統では「マグニフィカート」と言い表されます。これはラテン語で「崇める」という意味を持ち、更に原語をたどっていきますと、「大きくする」、つまり「私の魂が、主を大きくするように」というニュアンスが込められています。逆に言うと、それは「自分がその大きな主の前で小さくなるように」という思いを含んでいると言えるでしょう。


   ルターは「キリスト者の自由」の後すぐに、この「マグニフィカート」に関する執筆に取りかかったと思われます。丁度それは、彼がカトリック教会から破門されてしまった1521年の1月の頃でした。中世ヨーロッパでは教会から破門されるということは、社会的にも政治的にも葬り去られることと同じです。しかし、ほとんどそういうこと感じさせない内容なのです。淡々とした、或いはもうひたすらそういう中だからこそ、このマリアの歌に注目して書いていると言えるでしょうか。その後も3月頃まで、彼はこれを書き進めていくのですが、執筆半ばで翌月4月にヴォルムスの国会に召還されます。そこで、帝国内の法的身分を一切剥奪されるという刑を宣告され、翌月の初めにはその裁判からの帰り道に誘拐されたという体で、ある貴族によってヴァルトブルク城に匿われます。そこでも彼は執筆を続けました。そして、ようやく著作が完成します。ある意味ヨーロッパ全体が自分に反対し、激動、激変、明日をも知れぬ我が身という状況です。確かにルター自身の生涯の中で、彼はいよいよ「小さいもの」であった。だからこそ、なおさらマリアの歌に声を合わせて「我が魂は主を大きくします」と歌っているのです。

 これより遡ること4年ほど前の1517年10月31日に宗教改革の具体的な始まりとなった95カ条の提題をルターが公にするのですが、さらにそのちょうど1年前にルターが行った説教が残っています。その出だしはこうです。

「ある人にとってキリストが何者かであるなら、他の全てのものは虚しくなる。ある人にとって他の全てのものが何者かであるならば、キリストは無になる。」

   ここにいるのは、不安やおののきの中にいる少女マリア。その「私」に神様の愛の眼差しが注がれている。だから、マリアは思いもかけぬ形で幼子を宿しながら、その子の誕生に向かって日を進めていける。ルターは著作の中でマリアの信仰者としての生き様からメッセージを拾い出していきました。まさに、どん底にいるマリアと教会から破門されて世界で生きる保証を一切奪われてしまった自身を重ねて。だから、自分は底の底にいるんだと思っている人たちにこそ神様の愛の眼差しが注がれている。そのことに心を近づけていく事が、やはり本当のクリスマスなのです。

   さて、この中でルターが取り上げた言葉の一つは、特に「謙遜」があげられます。というのは、謙遜を徳として重んじる神秘主義のグループの存在が彼の信仰の背景にあったのですが、これは当時の教会の、しかも誠実な人々に対する一つの問いかけを含んでいたと思います。彼はこう言っています。

「謙遜というのは軽んぜられ、見捨てられた卑しい存在、あるいは境遇以外の何物でもない。マリアは、彼女の価値も無価値も賛美することなく、むしろかくも卑しい娘を心に留め、そして彼女に光栄ある、名誉ある配慮を与えたもう恵みと恩恵に富む神の顧み、注目をのみ、賛美するのである。」

   つまり、当たり前なのですがマリアは自身の謙遜を誇ってもいないのだと彼は言っている。そうではなくて、このような取るに足らない無であるものに目を注ぐ神に感謝をする。ここにルターの講解のポイントがあると思います。そうです。ルターがここで指し示すのは、頑張っていないマリアです。立派になろうとして頑張っていくマリアではない。御告げを聞いた後、この歌を歌った後、彼女は普通の生活に戻っていくからです。ルターはこうも述べています。

「彼女がいかに全てのものを全く神に帰し、一つの働きも一つの栄光も、一つの誉れも全く自分に帰するところがない、ということを見るべきだ。彼女は何一つ持たなかった以前と同じように働き、また前よりも多くの栄光を求めることもしないのである。彼女は誇らず高ぶらず、神の母となったことを吹聴せず、何の栄光も求めず、以前のように家にいて働き、ミルクを絞り、料理し、食器を洗い、掃除をし、主婦がするような小さな仕事をあたかもかくのごとき驚くべき賜物も恵みも少しも意に介しないように行うのである。彼女は他の人たちの間で以前よりも尊敬されることもなく、彼女はまたそれを求めもせず一人の貧しい女としてとどまった。」

 取るに足りない小さな自分に素直になる。こんな私にも神様の愛の眼差しが止まって神様に受け入れられているのだから、私もこの私自身を受け入れて普通の私の生活をすることができる。そういう事なのだろうと思います。マリアは、革命の歌を歌ったわけではない。この世界を支配なさる神様のみ手に、確かな望みを置いて今日を生かされている、ありのままの私の小さな一日を一生懸命生きる。その私を神様が見ていてくださる。これがマリアのくれたクリスマスのメッセージだと思います。

 (文責・月刊誌編集部)

 


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