マリア―「神様のやり方」に委ねた人


弱さを捧げる者と共に―Sr.岡の祈りのエッセイ 
Sr.岡立子 (けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会会員)聞き手・長倉崇宣
12月20日、27日(火)放送「マリア―『神様のやり方』に委ねた人」

FEBC月刊誌2022年12月記事より

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—教会がマリアの姿から何を受け取って来たのでしょうか?


 マリアは自分の弱さを受け入れた人です。だからこそ全てを差し出せたと思っています。というのは、教皇フランシスコは「私たちの神様はサプライズの神様」と言われるのですが、それは神様が私たちの「こうなるはず」と想定している範囲を超えて働かれる御方だからですよね。だから、そういう神様に付いていくためには、どうしても自分の考えや良しとするところを一回捨てなくてはならなくなります。神様からの呼びかけに応えるためには、「手放すこと」は欠かせない。そして、マリアへの天使のお告げはまさにそういうことだと思うのです。マリアにも人生計画があった。でも、それを一回全部手放して御声を受け入れた。

  「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」(ルカ1:38)これはもう、これ以上無い、キリストに従う者の本質的な態度です。


   だから私たちからすると受け入れ難い、このマリアの弱さは、「被造物としての弱さ」だと思います。私たちは神様ではない。自分で命を造り出すことは出来ない。それはこの命が神抜きの「自律した」命ではないからです。だから、この命を生きる時、必ず弱さが伴います。それが、私たちのありのままの姿。でも、アダムとエバは自分で自分の命をコントロールしたいと、この弱さを受け入れませんでした。しかしマリアは受け入れた。だから教会はこのマリアの姿に「新しいエバ」を見てきました。それが一番現れているのが、主の十字架の前に為す術なく立つマリアです。全てのイニシアティブを失った者の姿です。想定外の神様の業の前に、自分が何もできないことを受け入れる。その脆さを受け入れる。それが十字架の許に立つということではないでしょうか。だから、このマリアの姿を教会は大切にしてきた。何故、この弱さを受け入れることが出来るのだろうかと。 

 

  それは主イエスご自身のうちにあるからです。この御方がまさにそうですよね。本当の人間、つまり胎児として世に来られた降誕の脆さ。そして十字架に架けられていく脆さ。その只中に神の力は顕れる。その意味で、マリアは確かに神の民イスラエルの娘です。というのは旧約聖書、とくに申命記では、約束の地に入ろうとしているイスラエルの民に、モーセは「神が弱い私たちをどんなに導いて下さったかを思い起こしなさい」と何度も語ります。神は小さい者たちの叫びを聴く、弱い者たちとどこまでも共にいようとされる。貧しい残りの者たちを神はいつも心に留めている。マリアは、聖書が証しするこの「神様のやり方」を知っていた。それを信じた。ここに多くの困難さに直面している私たちへの神の語りかけがあるように思うんです。

 (文責・月刊誌編集部)

 



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