クリスマスの戦い


日曜礼拝番組 「全地よ 主をほめたたえよ」クリスマス礼拝 
青木豊牧師( 日本キリスト教会高知旭教会)
12月25日(日)放送「ここに愛がある」イザヤ57:14~19、1ヨハネ4:7~16

FEBC月刊誌2022年12月記事より

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イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。これは、反キリストの霊です。かねてあなたがたは、その霊がやって来ると聞いていましたが、今や既に世に来ています。 ...愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。 愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。 愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。 いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。 (1ヨハネ4:2~3、7~12)

 

…    クリスマスを引きずり下ろすこと …


   クリスマス、それは一つの戦いであります。今日の聖書にそれが示されております。このヨハネの第一の手紙4章は、ある一つの信仰の有り様に対して対決しているのです。つまり、主イエスが私共と同じ人間としてこの地上に来られたことを信じない有り様に対してです。それと対決し戦うために、この手紙は書かれたのです。別の言い方をすれば、クリスマスは主イエスの御誕生を祝うことに他なりませんが、それは「イエス様の誕生日祝いをすること」ではありません。両者は似て非なるものです。ここ高知で言えば、坂本龍馬の誕生祭をするように、何か偉い人の誕生日記念をすることと全く違うのです。仮に教会がそうするならば、却って私共がよく親しみ、よく知っている次元にクリスマスを引きずり下ろすことになります。私共が祝うのは、主イエスが私共と同じ人間としてお生まれになったこと、肉となって来られたということだからです。

 

… クリスマスの悲しみ …


「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(10)この言葉を聴いた人なら、誰でも思い起こす御言葉があると思います。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」(ヨハネによる福音書3:16)しかもヨハネ福音書は、その最初にこう語る。「父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(1:18)と。

   この御子は独り子であり、しかも「父のふところにいる独り子」です。ちょうど、親が子どもをふところに抱くように、御子は父なる神様のふところに抱かれた存在であった。ここには深い愛の関係があるのです。その大切な御子を父なる神様は、私たち人間のためにご自分の許から手放されたのです。ですからルターは言います。「クリスマスには悲しみなさい。父なる神様が御子を失った日だから」と。 何故、神様は御子を遣わす程に私共を愛して下さったか。考えてみて下さい、これはおかしいのです。愛されたから愛するというのなら、私共にも分かります。しかし、神様が私たちを愛して下さるのは、私たちが神様を愛したからではない。私たちに愛するに値する何かがあるからでもない。私たちは罪人です。しかし、どうしても神様は、私たちが罪の中にいることを放っておくことが出来ない。贖わざるを得ない。ご自分のものとして取り戻さざるを得ないと考えられる。これは私たちには分からないことです。私たちが罪人だから、神が愛されるというのは。

 

…「ここに愛がある」…


   人間は独りで生まれ、独りでこの世を去ります。しかし聖書は、人間を独りぼっちで生きていくものとは見ていない。神様が、天に独りぼっちでいる御方ではないからです。御子イエス・キリストと深い愛の関わりをご自身の内に持っている御方です。愛し、信頼しあい、まさに親が子をふところに抱くような仕方で、父なる神と御子は存在していた。その神様の有り様に似せて私たち人間は造られたのです。しかし、現実のこの世界を見れば分かるでしょう。それは壊れてしまった。罪とは、愛し、信頼しあうことがまず神様との関係において破れていることです。本当は私共は、愛し愛されたいのです。そのような愛と信頼の中で私たちは生きていきたい。しかし、悲しいことにその愛の破れと痛みを私共はこの現実の中で経験します。そういう私たちを見て、この神様はそのまま放ってはおけなかったのです。

 

「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。」(ローマ5:20)


   この聖書の言葉はクリスマスを証ししています。私共が愛することに疲れ果て、破れて絶望する時に、そこで神様の愛はますます燃え上がる。だから御子をお遣わしになって償い、贖いとなさったのです。御自分の愛の中へ取り戻そうとなさった。それがクリスマスです。何度でも言います。私たちの愛の破れたところ、愛することに疲れ果てたところ、そこにこそ神様の愛が燃え上がる。御自分の愛の中に私たちを取り戻して下さるのです!

 

   私たちの戦いはここにあります。ここ以外にはありえない。


   神様は、御自分と御子との関係の内に閉じ籠もることをなさらなかった。むしろ、私たちを御自分の愛の関係に引き入れるために、御子を手放されたのです。ルターの言葉を思い出して下さい。じゃあ、私たちは、自分たちだけでクリスマスを祝うことなんか一つも出来ないじゃありませんか!教会に来ようと思う人たちだけ、教会に来られる人たちだけでクリスマスを祝うなんて、出来ないじゃありませんか!

 

   だからこそ「ここに愛がある」。愛が来てくださったのです。


   私共が罪人だから愛してくださった主イエス。
   私共の罪の贖いとして、その身を献げられた主イエス。
   その主をいただくこの聖餐を、一人ひとりが自分の身をもって食べて味わい、そして今ここにいる者だけではなくて、ここにいない人たちにも心を向けようではありませんか。今こそ、その時です。

 (文責・月刊誌編集部)

 



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