聴く信仰
―「いのち」をいただく御言葉黙想
山内十束(カトリック・御受難修道会、宝塚黙想の家司祭)
12月26日(月)放送 第 91回「涙の中にあるもの」ルカ22:54~62
FEBC月刊誌2022年12月増刊号記事より
・・・
54人々はイエスを捕らえ、引いて行き、大祭司の家に連れて入った。ペトロは遠く離れて従った。55人々が屋敷の中庭の中央に火をたいて、一緒に座っていたので、ペトロも中に混じって腰を下ろした。
イエスが捕らえられてなお、イエスに従うペトロ。 しかし、遠く離れていたペトロ。
56するとある女中が、ペトロがたき火に照らされて座っているのを目にして、じっと見つめ、「この人も一緒にいました」と言った。
このペトロを、焚き火の火だけが照らします。 夜の闇の中で。 そしてそのペトロを、じっと見つめる目があります。 女の眼差しです。
57しかし、ペトロはそれを打ち消して、「わたしはあの人を知らない」と言った。
この答えは、ゆっくりと味わう必要のある言葉です。 ペトロは、今まで長い間イエスと生活を共にしてきました。様々な教えを聞き、不思議な業を目にしてきました。このすべてをもって、私はあの人を知らないと言ったのでしょうか。それとも、この女性の言葉を打ち消すためにだけの言葉でしょうか。
58少したってから、ほかの人がペトロを見て、「お前もあの連中の仲間だ」と言うと、ペトロは、「いや、そうではない」と言った。
どのぐらい時間が経ったのでしょうか。
他の人がペトロを見て言ったわけです。「お前もあの連中の仲間だ」と。
ペトロは普段から、私はイエスの仲間だということに自負がありました。それは、ペトロにとって誇りであり、網を捨ててイエスに従った自分自身を表す言葉です。
しかし、ペトロはそれを否定します。
「いや、そうではない」。
これもただ発言の否定しているだけなのか。あるいは「私はイエスから遠く離れ、私はあの人を知らないと言ってしまった。もうあの人の仲間ではない」と自分自身に問いかけている言葉なのかもしれません。
59一時間ほどたつと、また別の人が、「確かにこの人も一緒だった。ガリラヤの者だから」と言い張った。
さらに別の人が「この人も一緒だった」と言います。
そして「確かに」という言葉や「ガリラヤの者だから」という言葉も付け加えられています。これらは、ほんの数時間前なら、ペトロにとって最高の褒め言葉でした。
「私は初めからイエスに従ってきた。
いろいろな困難や苦しみを経たけれども、それでも私は従ってきたのである。
故郷のガリラヤから…。」
60だが、ペトロは、「あなたの言うことは分からない」と言った。まだこう言い終わらないうちに、突然鶏が鳴いた。
ペトロの心の内側をゆっくりと味わって行く必要のある箇所です。
ペトロは「あなたの言うことは分からない」と答えた。
ただそのペトロがまだ言い終わらないうちに、突然鶏が鳴いたのです。
鶏が鳴くはずがない時に、鶏が鳴いたのです。
「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたこのイエスの預言は成就したのか、それともしなかったのか。決めつけずに黙想していきましょう。
61主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。
焚き火に照らされるペトロを見つめる眼差しがあります。
主は振り向いてペトロを見つめられた。
ペトロは、その時に主の言葉を思い出したのです。
62そして外に出て、激しく泣いた。
この涙は、後悔や悲しみの涙なのか。
それとも再びイエスによって救われた、守られた涙なのか。
全てを失ったように見えるペトロの姿は、聖書によって祈っていく私たちの信仰を見つめ直す黙想の場です。
主イエスは、そのために私たちのところに来てくださったからです。
主イエスは、そのために私たちを今、見つめておられます。
(文責・月刊誌編集部)