FEBC特別番組
「今をどう見つめるか」
ゲオルギイ松島雄一(日本正教会大阪ハリストス正教会管轄司祭)
中川博道(カトリック・カルメル会宇治修道院司祭)
12月30日(金)放送
FEBC月刊誌2023年1月記事より
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—現在の世界と教会の現状をキリスト者としてどう受け止めたら良いか、初代の教会に遡る信仰の伝統を持つ東西の教会の霊性を踏まえてお話を伺いました。
人は人を救えない
●松島
ご承知の通り、私たちにとっては、その歴史の中で今が一番大きな危機と言えます。正教会はアンドレイ・ルブリョフの『至聖三者』という三位一体をあらわすイコンを大切にしているからです。このイコンこそ「あらゆる人知を超える神の平和」(フィリピ4:7)という神秘を表しているのです。ここでは三者が少しの曖昧さもなく、くっきり描き分けられている。しかも、誰が中心でも支配者というのでもなく、でしゃばりもせず、かといって卑屈にもならず、ゆったりしたくつろぎの中で交わりを保っている。この調和と一体性。しかし、この平和が破られてしまった!本当に悲しいことです。
私は現在70歳で、大学入学当時は70年安保の頃でした。その中で戦争に反対するという純粋な願いから出た人々が過激になって争い合うのを目の当たりにしていました。リンチで殺されたりすることさえありました。「戦争反対」というメッセージすら、いつもどこかで変質していってしまうのです。「人の良き思い」が悪しきものに容易に変わってしまう。だから、私たちの平和をこの世の現実の中に投影したり、直ぐに作りだそうとする運動の中では、それは却って実現していかない気がしています。少なくとも「あらゆる人知を超える神の平和」は。アレクサンドル・シュメーマンという正教会の典礼学者はこう語ります。「ハリストスを十字架にこの世が架けてしまった時、この世がこの世自体で、完全な平和を実現するその希望を失ってしまった」と。
●中川
聖ヨハネ・パウロ二世教皇は、教会が実際に起こしてきた色々な問題に対して人類全体に対して謝罪しなければいけないと仰った。実は私も大学に入って教会に通い始めた時、教会に批判すべきところは沢山あると思って、後に洗礼を授けて下さった宣教師にあらゆることを質問しました。教会がやってきた迫害や宗教裁判からキリスト教の名の下で乗り込んでいった植民地化の歴史などをレポート用紙にまとめていったのです。しかし、こう言われたんです。「教会の歴史はもっと酷いものですよ」と。私たちには頭を下げなくてはいけないことは沢山あり、とんでもないことを平気でやってきた時代もあります。それは過去だけでなく現代でも限界や大きな問題を抱えています。だからこそ、私たちは「イエスとは誰なのか」を問い続けるのです。この世界と共にイエスの福音を探し続けるのです。
キリストにより「わたしの教会を建てる」と告げられたペトロは、その直後に主の十字架への道行きに対して「そんなことがあってはなりません」と言った。それで主イエスから「サタン、引き下がれ」と言われたのです。その後もペトロはイエスが捕縛されそうになると剣を抜き、十字架のイエスを否み、主の復活後も間違いや過ちを繰り返しました。ペトロの中には悪魔的なもの、つまり「自分の価値観」や「自分のやり方」に拘るものがあった。それは歴代の教会や教皇も例外ではないとベネディクト16世教皇も述べておられます。つまり、何が「時のしるし」として示されているのかを見間違えると、私たちも同じ過ちを犯し続けるのです。
この私の「祈りと生活」から始まる
●松島
ドフトエフスキーの小説『カラマーゾフの兄弟』の登場人物のゾシマ長老の言葉として、こういうものがあります。「私の兄は小鳥にまで赦しを求めた。その赦しは一見無意味なものに思えるかもしれないが、それこそは正に真理なのだ。なぜなら、全ては大海のようなもので常に流れ、触れ合っているので、その一端に触れれば、世界の別の端でそれがこだまするからだ。」神様がお造りになった世界は元々一体であって、そして人間というのも一つに繋がっている。私は高校生から「神父様、何故戦争は起きるのですか?」と質問された時、このことを思い出しながら「一人ひとりが小さな憎しみを克服出来ないからです」とお答えしました。
世界中で起きているあらゆる戦争は、「私」の出来事なんです。それは言い換えれば、私がもし自分の小さな憎しみを克服出来たら、赦しの連鎖となり、地球の裏側で子どもに向けられた銃口が降ろされることに繋がるかもしれない。これは「甘っちょろい話」に思えるでしょうか?でも私は、それがクリスチャンとしての唯一つの立場だと思う。「祈ったって何の意味があるの」と言われます。ただ、正教会はこう信じています。「もし人が祈らなければ、この世界はとっくに壊れていただろう」と。ですから、為すすべもないような状況の中で、教会は祈りの力を本気で信じるべきです。祈りが求められているのです。
●中川
私たちカルメル会は共同生活が厳しく定められているのですが、それは錯覚の無い自己認識を生きるためだとされています。つまり「自分こそが救われる必要がある人間だ」ということを忘れずに生きていくことです。日常の生活の一挙手一投足の中で、自分が救われる必要がある人間として、イエスを追い求める。この私から、小さなことから世界を変えていく。幼きイエスの聖テレジアは、24年の短い生涯で最後の7年間を観想修道会の中で祈りの内に過ごしました。その彼女はこう言っています。「誰にも会わない、どこにも行かない。しかし、世界を持ち上げることは出来る」と。
だから、私たちは目覚めているべきです。用心深く。何故なら、これが人類の現実であり、時代が変わっても無くならないからです。私たちの教会、あるいは個々の人間関係の中にすでに、ウクライナでの惨禍に至るまで広がっていく、その根があるのだと思います。
(文責・月刊誌編集部)