「いのち」のあるところ


12月26日放送の「聴く信仰―『いのち』をいただく御言葉黙想」では、
十字架直前のペトロの姿(ルカ22:54〜62)から、
山内十束神父の導きによって黙想を深めていきます。

人々はイエスを捕らえ、引いて行き、大祭司の家に連れて入った。ペトロは遠く離れて従った。人々が屋敷の中庭の中央に火をたいて、一緒に座っていたので、ペトロも中に混じって腰を下ろした。するとある女中が、ペトロがたき火に照らされて座っているのを目にして、じっと見つめ、「この人も一緒にいました」と言った。しかし、ペトロはそれを打ち消して、「わたしはあの人を知らない」と言った。…


神父様の黙想のあり方はとても印象的です。
とにかく、あらゆる可能性を否定しないと申しましょうか。
例えばこのペトロの「わたしはあの人を知らない」という言葉については
このように向き合っていきます。

ペトロは、今まで長い間イエスと生活を共にしてきました。様々な教えを聞き、不思議な業を目にしてきました。このすべてをもって、私はあの人を知らないと言ったのでしょうか?それとも、この女性の言葉を打ち消すためにだけの言葉でしょうか?

そのどちらであるとは、決して神父様は断定しません。

でも一方、どちらでもいいよ、という事でも無いのですね。
「それはあくまで、あなた自身が主イエスとの語らいの中で聞き取ること。」
その姿勢がずっとこの番組では貫き通されています。

ペトロが何を考え、何を思い、何を求めたのか。
神は、イエスは、どのような眼差しでペトロを見ておられたのか。
勿論、定説はありますが、そこには「いのち」は無いのだと思います。

ではどこにあるのか?
やはり、今を生きる神にこそ…ですね。
だからこそ私達は物事を決めつけずに、
この方に聞き続ける必要があるのでしょう。

ぜひ「聴く信仰―『いのち』をいただく御言葉黙想」をお聞きください。
主との生の語らいを、神父様の導きによりご一緒に重ねていきましょう。