今は、止めないでほしい。 ~イエス様に結ばれて~


日曜礼拝番組 全地よ 主をほめたたえよ
日本基督教団石動教会・井幡清志牧師
1月29日(日)放送「主が明るくしてくださった道を行く」マタイ3:15

FEBC月刊誌2023年1月記事より

・・・

今は、止めないでほしい。 正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。(マタイ3:15)

 マタイ3章のはじめで、洗礼者ヨハネが人々に「悔い改めよ」と呼びかけ、大勢の人がこの洗礼を目指して集まってきたとあります。しかし、この呼びかけにイエス様がやってこられた。これにはヨハネはびっくりしたでしょう。洗礼は、罪ある者が神の前に悔い改めて立たせていただくためですから。

 でもイエス様は、ご自分の受洗を「正しいこと」と言い表されました。神様のお心に沿った必要なことだと考えておられた。私は、この時に洗礼の意味が明確に変わったのだと思います。

 罪を自覚して悔い改める人間の心は尊いものです。しかし、永遠のものかと問えばそうではない。私たちはたとえ信仰を持って、人生を新しく始めても、御言葉を「呼びかける」声として聞き続けなければ、あっという間に自分流に流されていきます。

 では、洗礼を受ける意味とは何でしょうか?
 ところが、この洗礼にイエス様が加わってくださったことでその意味は決定的になりました。

 この時、洗礼を受けた全ての人たちの歩みと、イエス様はつながって下さったのだということです。私たちは同じ洗礼を授かった者として繋がれる。いわばイエス様が私たちの手を取って、共に洗礼を受けた者として神様のもとへと引き連れて行ってくださるのだと、私はそう思います。本当にイエス様のお心が染み渡っているなあと。
 イエス様のなさった数々の御業や大切なお言葉。それを私たち人間が自分で同じようにできるかと言えば無理なことです。最たるものは、十字架と復活ですよね。

 ところが、イエス様は罪ある私たちと共に洗礼を受けられました。罪のない御方が敢えて受けられた。だから教会は、信仰を洗礼によって受け継いで来ました。イエス様と同じようにすることを通して。だから、洗礼こそ、誰もがイエス様と共に生きるために開かれた唯一つの道なんです。それは、私たちが力をつけたり、業を磨いて到達するところではなく、神様にただ「はい」と言って受けとる場です。

 私たちは信仰をもってイエス様の愛やお働き、御言葉によって導かれて、立ち止まったり、振り返ったりして新たにされていく。それでも、たくさんの挫折を繰り返してしまうでしょう。心に決めても、貫けない。私たちには弱さがあります。しかし、ただ一度きりイエス様と共に受ける洗礼は、その人の生涯を全く覆い尽くす。もはや後戻りはなく、決して消えない。ここにイエス様と共に歩む生活があるとイエス様の洗礼ははっきりと告げているんです。

 私たち罪ある者の中に、イエス様もおられる。そこまでして、私たちと同じところに身を置かれる。その圧倒的なアンバランスの中を、実は私たち人間は生かされているんですね。

 (文責・月刊誌編集部)

 



 月刊誌「FEBC1566」購読申し込みページへ>>