7つの約束


生きるとは、キリスト 
小林和夫(日本ホーリネス教団東京聖書学院教会牧師)
1月27日(金)放送「信頼への約束」ヨハネによる福音書14章1節

FEBC月刊誌2023年1月増刊号記事より

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あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。 (ヨハネ福音書14:1)

 私がアメリカの留学から帰って少し経った頃、母が倒れてしまった。ひどい状態で母の人生が終わりかもしれないというものでした。母は言い知ることのできない不安に襲われましてね、何日かを過ごしていたところ、私をキリスト教に導いてくださった牧師が訪ねてくださって、お祈りをしてくださった。
 その開口一番おっしゃった言葉が、この御言葉でありました。
 そして、この言葉が先生の口から出るやいなや、母の魂の中にまるで電気に触れるように入り込んできまして、暗雲が一掃されてしまうような経験を母はもったんです。それ以来、母の終生一番好きな聖書の言葉となった。

 ここでは「信じる」ということが繰り返して出てきます。それは「信じる」ということは、分水嶺だからです。
 お弟子さんたちの生涯を見ても、そうであった。イエス様に従った。しかし、なかなか信じることはできなかった。そして、この福音書によりますと、ガリラヤのカナでの結婚式が行われ、水がぶどう酒に変えられるという奇跡が起きました。その時に初めて、弟子たちはイエス様を「信じた」と書いてあります。そこから彼らの信仰が始まった。ところが、おぼつかない信仰で、もう吹けば吹っ飛んでしまうような信仰であったと思いますね。そして、ついにイエス様の十字架の時を迎えるのが今日の箇所です。

 十字架にかかられようとする前の晩、イエス様は「私は明日、全人類の罪を負うて、あの十字架の上にかかって命を落とすぞ」と仰った。
 弟子たちはそれを聞きましたからね、もう心が騒ぎました。それはそうだったと思いますよ。みんな仕事やそれまでの生き方を捨てて、イエス様に人生を賭けた人たちでしたから。この「騒がせる」という言葉は、風によって波がざわめくという言葉です。海っていうのは、少し風が吹きますとざわざわとしてきて、その表面が波で荒れ狂ってしまうようになる。ここでいう「心を騒がす」というのは、そういうことです。

 けれどもね、イエス様という御方はその只中で私たちにね、「理性を超えても、理屈を超えても、私を信じてほしい」ということを仰るんだ。これはなんという招きかと思いますね。同時に、人間というのは、なんと信じることができない存在なのかなっていうことを思います。
 三年間イエス様と同じ窯のご飯を食べて、寝起きをともにして、育てられた人々ですよ。でありながら、イエス様を信じるということがおぼつかなかった。私たちもね、問題が起こると、すぐに解決しようとあの手この手をやるんですよ。でもね、それではないなって思いました。「私を信じなさい」というイエス様の言葉を信じることだと思いますね。

 しかし、イエス様はね、ここで迷信的でも何でもいいから信じなさい、とは仰らないんです。このヨハネによる福音書14章の中にはね、その根拠となるイエス様の7つの約束が記されています。

 先ず2節に「あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから」とまで仰る。私はこの意味は非常に深いと思う。誰も天にいったことがないんですよ。皆さんね、どこにゆくかわからない人生って、どんなに不安でしょうか。だがイエスが、人間の代表として父のもとに行く。ゴールを作りに行くと仰ったのです。

 次は3節です。「またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。」これは再臨のことです。この「来る」という言葉は、ギリシャ語では現在形で書かれている。なぜなら、ギリシャ語では起こる出来事があまりに確実である場合に現在形で表すからです。そうです。私が再び来るのは確実だぞというイエス様の約束です。

 第3は12節の「わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう」です。これは事実でしたね。ペンテコステの日にイエス様を見捨てたあの弟子たちが宣教をして一日に五千人の人が救われたという事件が起きました。

 第4は14節。「何事でもわたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう。」これは祈りへの保証です。つまり、あなたがたの熱心で祈りが聞かれると思うなということでもあります。私の名前をもっていけ。クリスチャンは、イエス様から実印を与えられているんですよ。だから、本気で私の名前で祈ってごらんと仰るんだ。

 第5は16と17節です。「わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。それは真理の御霊である。」
 聖霊の約束です。しかも、聖霊は別の助け主です。私たちの人生で行き詰まった時に、究極的には生き死の問題で、何が人生において一番大切なのか。それはイエス・キリストという御方ですよ。そのイエス様をわからせてくださる助け主。だから「私を信じなさい」とイエス様は仰る。

 第6は18節の「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る。」どんなに大勢の人がいても、人は結局は孤独ですから。けれども、あなたのその孤独を知り抜いて、それでもそこに一緒におられる御方がイエス・キリストです。

 最後は27節。
「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。」

 本当には人は人に平安を与えることはできません。それは、罪の解決がないからだ。世は神を計算に入れられないんです。でも、そう言ったって、結局はお金だ、保険にも入っている、だから平安だとあなたは言われるかもしれない。しかし違いますよ。それが、少しも役に立たない時がある。あなたが篭もっているその城壁が崩れていく時があるのです。罪と死です。
 だからこそ、イエス様は約束を与え、信じるんだぞと仰る。そう、イエス・キリストを信じるというチャレンジを私たちは受けているのです。

 (文責・月刊誌編集部)

 



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