三位一体の祈り


エマオへ—ともに歩む信仰の旅路 
片山はるひ(上智大学神学部教授、ノートルダム・ド・ヴィ会員)
12月29日、1月5日(木)放送「三位一体の聖エリザベトの祈り —現代人へのメッセージ」

FEBC月刊誌2023年1月増刊号記事より

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 ストロマエというフランスのラップ歌手の最近ヒットした『カルメン』という歌のミュージックビデオは、男の子がスマホを見ていると、小さい青い鳥が飛んでくる場面から始まります。インターネットで自分のつぶやきが友達に一気に届くっていうTwitterというサービスを象徴するあの青い鳥です。そうしてTwitterを使ううちに、どんどん友達の数は膨らんで行き、小鳥も大きくなっていく。いつしか主従が入れ替わって彼はこの鳥の奴隷というか、この鳥に背負われて歩むようになります。そのうち崖が出てきて、何と乗っている人を崖下に落としながら、この鳥は飛び立つという怖い動画です。

 一人一人がネットによってすごく繋がっているようで、実は孤独であるというこの時代に、三位一体のエリザベトは列聖されました。これは人間にとって一番大切なものとは何か?実は幸福っていうのはどこにあるんだろうか?という問いかけです。彼女が生きたカルメル会での生活は、現代人から見れば、「何それ、ちょっとおかしいんじゃない」という生き方。でも、彼女は「私の幸福の秘密をいろいろな人に伝えたい」と考えました。これは一種のパラドックスですよね?高い壁で、隠された生活。誰とも一見繋がっていない生活。けれども、ただ祈りによって、今もどれだけの人々とエリザベトが繋がっているかと思うんです。今回はそのエリザベトの言葉を一緒に味わいたいと思います。

 「永遠の光のもとで人は全てを真理に基づいて見ます。神のために神と共になされなかった全てのことは何と虚しいのでしょう。全てに愛のしるしを刻んでください。愛以外残るものはありません。人生とは厳粛なものです。」

 Twitterだ、Facebookだ、スマホだと言いながら、私たちが忘れようとしているのは、人は死ぬっていうこと。終わりがあるということ。私たちはそれを無いかのようにして、ある意味騙し騙されて生きている。でも、この人生は厳粛なものです。死の時に、愛以外に残るものはありませんと彼女は言う。これは、ロマンチックでしょうか?私はリアリズムだと思います。ですから、彼女のメッセージが今響いているんだと思うんです。

 これはちょうど彼女が亡くなる何日か前に言った言葉です。

 「全ては過ぎ去ります。命の夕べに残るのは愛だけです。全てを愛によって行い、絶えず自分を忘れるように努めることが大切です。自分を忘れ、空にするとき、神はそこにご自分の愛を注がれます。」

 三位一体のエリザベトは、7歳の時に父親を心臓発作で亡くしています。しかも、エリザベトの腕の中で亡くなるんです。それが、どれだけのインパクトだったか!命のはかなさ、全ては過ぎ去るという彼女の言葉はこのときから心の奥深くに刻まれていたと思います。その後、1891年の初聖体の時に、イエスが私の心を完全にとらえられたって言っています。「イエス様自身に養われたので、もうお腹はすかないの」って。

 彼女は、次第にカルメル会への召し出しを感じるようになるんですね。そこにはテレーズの自叙伝となった『ある霊魂の物語』という本との出会いがあり、もう一つは、初聖体の日に自分の名前が「神の家」っていう意味だとシスターから知らされ、それが後にドミニコ会のバレー神父様という方によりヨハネ福音書から紐解かれました。それは、キリスト者は洗礼の恵みによって真に神の家であり、御父と御子と聖霊が三位一体として住んでおられると。彼女はこれを伝えることが自分のミッションなんだとの思いを深めていきます。

 彼女は教会では非常に熱心な信徒で、元気のいいお嬢さんだったようです。また才能のある、ピアノ科最優秀賞を受けるほどの非常に感性の豊かな人だったんですね。だから、芸術家にありがちなこだわりもあったでしょう。この自分の性格との戦いっていうのは一生続いたそうです。だから、カルメル会に入ると、そう簡単ではなかった。それまで自分のしたいことをしていた人が、いきなり厳しい規則で全て決まっている集団生活の中に入るわけですから。そして、いざ請願を立てる段になって、真っ暗闇になったそうです。自分は本当にカルメルに召されているのか、この生活なのかと闇に覆われるような状況が確か何ヶ月か続きました。これは私たちも同じですよね。生きていく上での苦しみ。どこにでも嫌な上司ってのがいたり、家庭の中でも様々な日ごとの悩みがある。そういう小さな暗夜をどうやって生きるかを私たちも経験します。

 彼女は、27歳でアジソン病っていう当時不治の病で亡くなるのですが、その苦しみの中での最期の言葉「私は光へ、愛へ、命へいきます」という言葉と、よく知られた三位一体の祈りを遺しました。「おお私の神、三位一体の神を拝みます」から始まる祈りです。

 「私が自分を完全に忘れることができるように助けてください。」

 不思議な呼びかけです。芸術家気質だった彼女にとって、自分の感性にとどまってしまったら、神の許に行かれない。私のこだわりとか、私の感覚とか、これはやはり忘れないといけないということだと思うんです。冒頭でストロマエのラップの話をしましたが、私が聞くもの、私が触るもの、それは人を本当には幸せにしないということなんだと思うんですね。

 ただ、もちろん絶えず雑念が戻ってきます。でも、雑念にも効用がある。私が何を気にして生きているかっていうことがよくわかるということです。安心下さい。もし気が散らない人がいたら、その人はロボットです。アビラの聖テレサも、小さきテレーズも雑念いっぱいの人だった。気が散っても、それを受け入れながらとどまる。その助けになるのがエリザベトの存在とその祈りなんですね。

 「何事も私の平安を乱すことなくあなたから出て行くことのないように、変わることのない神を。一瞬一瞬があなたの神秘の深みに私を連れて行ってくださいますように。私の魂を安らかにし、それをあなたの天国、愛する住居、憩いの場としてください。」

 「変わることのない」っていうのは概念じゃないし、天国も神のおられるところならどこでもですよね。テレーズもこう言っています。「私は神と共にもう生きていますから」。この沈黙の祈り、念祷と言われるこの沈黙の祈りを永遠のうちで神と共に行う。この永遠というのも、ずっとという意味じゃない。ベネディクト16世は、我々は時間の中で生きているので時間以外のものを考えることはできない。だから「無限の愛の海に飛び込むの似ている」と仰っています。

 そして「私がそこに完全にいたい」。このエリザベトの言葉は、英語で言うとBe thereであり、hereということ。神はここにおられる。そこに私もいる。だから、私たちは決して一人ぼっちではない。孤独ではない。あなたたちは神の住まい。このことが、エリザベトの根本的なメッセージなのですね。

 人間はこの孤独を逃れるために、今スマホ握りしめて生きている。これは若者だけではなくて人間の恐れです。でも、神と共に生きることを知った人間は、決して一人ではない。だから、私たちは自分自身という牢獄の奴隷になってしまっても、そこから解放される。この神のメッセージを伝えることは私たちの非常に大きな使命です。だから、エリザベトはこの現代で列聖されました。

 私たちは、祈りの中で神と付き合う時、神に似たものになっていく。人間となっていく。さらに言えば、「朱に交われば赤くなる」という言葉の通り、いわば神と交われば神のようになるんです。だから、よく祈りなんか無駄だと言うんですけれど、それは祈ってないからです。祈ってきた方たちは、祈りがなければ人間は何もできないんだってことをよく知っている。このエリザベトが生きた人生とメッセージは、今走りながら生きている私たちに強く訴えかけているんじゃないかと思います。

 (文責・月刊誌編集部)

 



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