自由は外的なものによらない


マルチン・ルターの 『キリスト者の自由』(再) 
徳善義和(日本福音ルーテル教会牧師、日本ルーテル神学校名誉教授)
石居基夫(日本福音ルーテル教会牧師、ルーテル学院大学学長)
聞き手・吉崎 恵子 (FEBCメイン・パーソナリティ)
1月6日(金)放送「自由は外的なものによらない」

FEBC月刊誌2023年1月増刊号記事より

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第三 さて、我々は、内的・霊的な人を取り上げて、これが義(ただ)しい、自由なキリスト者であり、またそう呼ばれる為に何がなくてはならないかを見ることにしよう。そうすると、外的なものは何にせよ、どう呼ばれようと、決して人を自由としたり、義としたりすることはできないのは明らかである。…


 修道院の生活は、一日の決まった時間に何度も皆が集まってお祈りをします。中世の最盛期には、日に8時間にもなった。ルターは一生懸命な人ですが、司祭になり、神学の学位を次々と取っていって忙しくなると皆のお祈りに出られずに、その分を自分一人でやらなければならなくなりました。ある時期には課題が3ヶ月分位たまったこともあるようです。その上に週に1回、金曜日に全員での懺悔があり、さらには個人の懺悔もありました。彼は繊細な人だったので、懺悔の後で自分の部屋へ歩いて帰る途中で、また思い出すという状況で、外的に縛られている生活を送っていたわけです。後にこれが「私はどのようにしたら恵みの神を獲得できるか。」という彼の問いになっていきます。いくら努力をしても神様に受け入れられている自分という実感を持つことが出来なかったからです。それで、冒頭の文章では「義(ただ)しい」をキーワードとして、ルターは人々に問いかけているのです。神様の前で全うで義しいキリスト者と言えるかどうか、と。

 難行苦行でも励むことで、神様を喜ばせることになると思い、一生懸命やる。それは、良い行いによって人間に内在するものを発展させていけば、神に近づいていくという当時の教会の教えがあったからです。それを修道士たちは「神様の行い」と呼んでいました。しかし、ルターはこう言うんです。「お命じにはなるが、それを果たす力を与えて下さらない神を憎むようにさえなった」と。
 ルターはこの苦しみの中で気が付きます。「神様の行い」というのは、神様が私たちにしてくれるということを。神様こそが私たちに義をプレゼントして下さる。ここから宗教改革の大逆転が起こってきます。「礼拝」は英語では「サービス」でしょ。しかし、教会が知らず知らずのうちに陥っている大きな問題は、礼拝は神様に対して私たちがするサービスと錯覚することです。ルターが言うのは、神様がサービスして下さるのだと。これは次の聖書の言葉にある通りです。

あなたたちが神を愛したのではなく、神があなたたちを愛して下さった。そこに愛がある。(1ヨハネ4:10)

 我々の為に心を痛め、我々の為にひとり子を与えて下さっている。その神の働き、神の愛に気付かされるところで信仰が始まる。だから「これだけしたから信仰が深まってきたんだなぁ」というものではありません。どんなに辛い境遇にあっても、神様から見捨てられることはない。どんな時にも、イエス・キリストにおいて私のすぐ傍らにいて下さる。

 「自由は外的なものによらない」そう言っても、では心の問題かと言えば、人間には自分の中身を見ても、どこにも信仰の確かさはないですよね。ルターはガラテヤ書の大講解で語ります。教会のどこを見たって清いとは一言も言えない。人間の姿を見ていればそうだ。けれど、キリストがそこにおられるのだと。

 私たちは自分の内なる思いや、或いは外に表れる行いにこだわって生きています。しかし、それを超えて、全く自分の外から与えられた恵みを見ていく時に、自分も他者もその恵みの中に共に生きていることを見出す。この発見が、ルターが共に歩みたいと願ったところにつながっていたんじゃないでしょうか。


 (文責・月刊誌編集部)

 



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