健全な心の宗教と病める魂の叫び

日曜礼拝番組  全地よ 主をほめたたえよ 
日本基督教団小岩教会 川島 隆一 牧師
2月12日(日)放送「健全な心の宗教」ヨハネによる福音書2章23~25節

FEBC月刊誌2023年2月記事より

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イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。 しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、 人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。

(ヨハネ2:23~25)


「イエスはその人々を信じない!」これほど激烈で、衝撃的な言葉があるでしょうか!


 ここで、注目したい二つの聖書箇所があります。一つは、ヨハネが伝える給食の奇跡とそれに続く講話です。五つのパンと二匹の魚で養われた人々に対し、イエスは「ひとりでまた山に退かれた」。イエスは群衆に、「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」と語り、そして、「わたしは天から降って来たパンである」と言われた。その意味をヨハネは、「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない」と解説しました。これを聞いたユダヤ人たちは、「実にひどい話だ」と言って、イエスのもとを離れ去り、共に歩まなくなったのです。

 ふたつ目は、ルカ福音書のエマオ途上の二人の弟子の物語です。イエスをメシアと信じた彼らが、イエスの十字架によって望みは尽きたと肩を落とし、元の生活に戻ろうとしていた姿を描いたのです。これは、盲人の目を開き、足の不自由な人を歩かせ、らい病人を清め、死人を生かし、五つのパンと二匹の魚で五千人を養い、貧しい人に福音を語るナザレのイエスを信じることと、死者の中から復活したイエスを信じることとは全く次元を異にすることを意味します。


 このことを心理学の視点から指摘したのがウィリアム・ジェームズです。彼は『宗教的経験の諸相』で、しるしを見てイエスを信じる信仰を「健全な心の宗教」と呼び、「一度生まれの子」と定義しました。そして、次のように解説します。「一度生まれの子は、神を、厳格な審判者とは見ない。むしろ、美しい調和ある世界に生命をあたえる霊、慈悲ぶかく親切な、純粋であるとともに恵み深いお方として見る」と言って、あの痛烈な言葉、つまり「神を信じないさまざまな教会が、今日、倫理会という名称で世界に普及しつつある」と語ったのです。


 私が、この健全な心の宗教ということで思い起こすのは、明治期に日本に入ってきたプロテスタント教会です。まじめな生活、立派な生き方、価値のある親切、誉れある事業、熱心な慈善、公共の正義などを彼らはこの国に植え付けました。「それは充分真理であろう。しかし、これらすべての素晴らしく価値ある事柄は、神との人格的交わりの欠如と関連している」と言ったのはイギリスの教会指導者、神学者であるフォーサイスです。では彼はなぜ、神との人格的交わりの欠如と言ったのでしょうか。それは罪との関係が切れては、恵みは意味をもたないからです。

 ジェームズは言います。「キリスト教会では、罪を悔いるということが、その始めから決定的な宗教的行為となっているが、ただそこでも、『悔い』とは罪からのがれることであって、犯した罪に呻いたり悶えたりすることではない」と。


 つまり、健全な心の宗教からは、「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」(ローマ7:24)というパウロの叫びが発せられることはないのです。ジェームズは、このパウロの叫びを発するのは「病める魂」、二度生まれの子たちであると言います。私は、ヨハネが3章から始まる新しい章の導入句である今日の聖書箇所で描いたのは、病める魂であれ! ということではないかと考えます。換言すれば、罪を真剣に受け止めるよう求めたのです。「病める魂」のみが、神との人格的な交わり、すなわち先程のパウロの叫びの直後にある「わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな」(ローマ7:25)という生の歓喜を知るのではないかと。「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死の体からわたしを救ってくれるだろうか」という死ぬほどの苦しみは、キリストによって与えられる、神を賛美し、天にも昇る喜びと不可分なのではないでしょうか。


 ここで注目したいのがアモス書4章です。ここでは、犯した罪を何度懲らしめられても悔い改めない頑ななイスラエルに対する、神の裁きの言葉が語られています。神はイスラエルが罪を悔いて立ち帰るよう、懲らしめの鞭、つまり旱魃や害虫を送って作物を枯らし、疫病で動物を殺し、軍馬と剣で民を蹂躙し、ソドム・ゴモラを焼き尽くした火で大地を灰燼に帰したのです。ここで「しかし」と神は言われる。「しかし、お前たちはわたしに帰らなかった」と。

 驚くべきは、この後のアモス書の言葉です。「それゆえ、イスラエルよ、わたしはお前にこのようにする。わたしがこのことを行うゆえに、イスラエルよ、お前は自分の神と出会う備えをせよ」(アモス4:12)と語るのです。ある聖書学者は、これはアモスの宣教の頂点であると言います。「アモスの宣教しなければならなかったことのすべての頂点は、イスラエルが今やヤハウェと関係を持つということ。しかし、それは聖所や巡礼者のヤハウェではなく、その当時だれも知らなかったようなヤハウェ、つまりイスラエルに新しい行為を始めるヤハウェと関係を持つという点である」と。


 その当時だれも知らなかったヤハウェ!それは、「神と出会う備えをせよ」という一句に象徴されます。聖書の用語によれば、「出会う、備える」というこの二語には、敗北に備える・覚悟するという意味はありません。ヘブル語聖書では、救いを与えようとしておられる神と出会う備えをせよという意味で用いられるものです。つまり、何度警告しても悔い改めなかったイスラエルに、神は、裁きではなく「命」を提供するという!確かに、この神は「その当時だれも知らなかったようなヤハウェ」であります。なぜなら、その当時知られていた神ヤハウェは、応報史観の神です。罪を犯した者を罰する神です。しかしアモスは、罪を犯し悔い改めない者に裁きではなく「命」を提供する神を告白したのです。それは言い換えますと、何度神に裁かれても罪を悔い改めて神に立ち帰らないイスラエルと、そのイスラエルに対して命を提供する神との断絶はあまりにも深いことを意味します。その新しさはこれまでのものの継続としてはもはや理解することができないのです。


 ヨハネが主イエスの宮清めで描いたのはこの新しさなのです。エルサレム神殿が破壊された後に建てられる新しい神殿、イエスの体の新しさです。つまり、神の民イスラエルがかつて経験したことのない—全く新しいこと—十字架のキリストに出会う備えをせよと語った。

 結びに、十字架の信仰・希望・愛について語ったパウロの言葉を聞いて終わりたいと思います。


希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。(ローマ5:5)


 パウロの言う「希望」とは、「体の贖われることを待ち望む」(ローマ8:23)希望です。言い換えますと、「わたしは、なんという惨めな人間なのだろう。だれがこの死の体から、わたしを救ってくれるか」という叫びです。


 だから、パウロは続けて次のように語るのです。「わたしたちがまだ弱かったころ、不信心な者、罪人、神の敵であった」時、私たちの罪、咎、過ちのすべてを身に負って神の御子イエス・キリストは十字架に上げられるために天より降って来られた、と。然り、神はその独り子をお与えになったほどに、悔い改めることのない邪悪な世を愛された!この神の愛は、健全な心の宗教が語るような、人に道徳的影響をもたらす自己犠牲などでは断じてない。病める魂が喘ぎ求める「誰がわたしを救ってくれるか」と叫ぶ私たちへの神の応えなのです。


 だからこそ「わたしは罪の悔い改めの定義を知るよりも、むしろそれを実感したい」と語ったトマス・ア・ケンピスの言葉が今、私の心に迫るのです。

 (文責・月刊誌編集部)

 


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