聖書のマリアと共に

エマオへ―ともに歩む信仰の旅路 
片山はるひ(上智大学神学部教授、ノートルダム・ド・ヴィ会員)
3月2日(木)、9日(木)、16日(木)放送「母マリアと共に歩む四旬節の旅」

FEBC月刊誌2023年3月記事より

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  イエス・キリストに目を注ぐこの四旬節に、マリアと共に歩みながら信仰を深めていきたいと願っています。


 まず当たり前のことですが、マリアはイエスを本当に産んだ方で、100%人間です。処女降誕はキリストがどういう存在かということであり、それはマリアという存在と密接に結びついてるということです。そしてこの母は、まさにイエスのために生きた。だからマリアの通った信仰の道は、私たちも通ることができると教会は確信しているのですよね。リジューの聖テレーズは、「マリアよ、なぜ私はあなたを愛するのか」という非常に長い詩を遺していますが、これは当時の教会への彼女の問題意識があります。というのは、当時の教会がマリアをやたらとほめたたえていて、結果としてマリアを遠い存在にしていると彼女は感じていたからです。彼女は聖書の中にマリアを見ていました。この詩の中で「普通の道を通って行かれた」とマリアのことを歌っていますが、私たちもマリアがどれだけ苦しんだ人かを聖書の中に見ていきたい。なぜならマリアの人生は本当に大変なものであったからです。
  まず、ルカ福音書2章の22節からの箇所です。初めて生まれる男子は主のため聖別しなければならないという律法に従って、イエスはヨセフとマリアによって聖別されるのですが、その時の献げものは、山鳩一つがいか家鳩の雛二羽とあります。これって貧しい人の場合の規定なんですね。つまり、この家族は本当に貧しかった。そこにシメオンというおじいさんがやってきて、シメオンの賛歌を歌いますね。ところが、その中で不思議な預言をマリアに言う。「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます―多くの人の心にある思いがあらわにされるため」(35節)だと。
  さらにその続きでは、少年イエスが巡礼の旅の中で迷子になっちゃうんですね。そこでイエスが言うのは「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」(49節)です。「しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった」(50節)。でも、「母はこれらのことをすべて心に納めていた」(51節)んです。わからなかった。けれど心に納めていた。私たちも生きていく中で、何でこういうことが自分に降りかかるのかわからないことが多くありますよね。だから心に納める。これは祈るということです。これがマリアという人でした。


 ヨハネの福音書の2章のカナでの婚礼では、イエスは母とだけ参列し、次のやり取りが記されています。「母がイエスに、『ぶどう酒がなくなりました』と言った。イエスは母に言われた。『婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。』」(4節)イエスはこの後すぐ、水がめに満たした水を良いぶどう酒に変えるという奇跡をされる。

 聖書の中で、婚礼はすごく重要な意味を担っています。救いの意味です。旧約聖書を貫くのは、神がイスラエルの民を選んでご自分の花嫁としたことですし、新約聖書はその花婿こそがイエス・キリストだと告白します。注目するのは、この婚礼のためのぶどう酒の話はマリアによって始まっていて、そこで重要なのはイエスの答えだということです。原文のギリシャ語では不思議な言い回しで、直訳すると「私とあなたにとって何か」となり、ある人は「それが私とあなたにとって何であるかがおわかりですか」と解釈しています。なぜなら、この後でイエスは水をぶどう酒に変えたのですが、それは真の意味でぶどう酒を変える時が来たからです。それは最後の晩餐ですね。「これはあなた方のために流される私の契約の血である、だから取って飲みなさい」というミサです。この奇跡をなす時、つまり受難の時が来た。ここにマリアの存在があったということになります。それはイエスがマリアを「婦人よ」って呼んでいることからわかります。冷たく聞こえるこの言葉は、実は聖書では違う響きを持っているんですね。


 十字架の死の場面のヨハネの19章26節では、「イエスは母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、『婦人よ、御覧なさい。あなたの子です』と言われた。 それから弟子に言われた。『見なさい。あなたの母です。』」とあります。この「婦人よ」は直訳すると「女よ」です。非常に荘厳な言い回しで、この背後には最初の女、命の母エバがある。アダムと共に自分も神のようになりたいと罪を負っていくエバです。しかしマリアは違う。受胎告知の神の言葉に対して、「御言葉なれかし」と言った。確かにマリアは神の救済に深く関わる一人の女性であり、また母です。ナザレで30年、弟子たちなんかと比べ物にならない程、この「わからない」という思いを抱えながら、イエスに目を注ぎ祈ってきた。これはカルメル会的に言えば信仰の暗夜で、その極みがヨハネの福音書19章のスターバトマーテル(母は立つ)の姿です。


 東京四谷のイグナチオ教会にはクリプタという地下聖堂があります。そして、それに続く階段を下りて見上げたところにステンドグラスがあります。十字架のもとに立つ母の姿が。
 マリアは実に深い信仰の闇を通りました。受胎告知のお告げの時にマリアは「お言葉通りになりますように」と応えましたが、それがリアルタイムで十字架上で喘ぎ苦しむ自分の子を見ることに繋がっていくのです。ローマ帝国の極刑ですよ。しかも弟子たちは誰一人彼を守ることができず、イエスを歓呼していた群衆は皆十字架につけろと叫んでいる中でです。だから十字架のもとに立つというのは絵とかで見ると綺麗ですけれども、本当はどういうことだったのだろうかと思う。これもあくまで「はるひ解釈」ですが、この十字架のもとに立つ人っていうのは無原罪だろうなって思っちゃう。私たちのエゴイズム、偶像に執着して自分自身を神から引き離そうとするエゴイズムが、ここに入り込む余地はないんです。そこにあるのは愛そのもの。十字架のもとに立つということはそういうことではないでしょうか。


 マリアはユダヤの娘でした。救い主が来るのを待っていた民全体の希望を受け継いで「なれかし(御言葉通りになりますように)」と言った。だから全ての希望を自分の子に置いた。しかし、十字架でそれが全てなくなってしまったのです。そこで、この母は十字架の前に立つ。信仰の暗夜を生きる。そして、このマリアが最後に聖書に登場するのは聖霊降臨の時です。マリアは弟子たちの群れ、教会の祈りの真ん中にいました。そこで彼女は祈る。

 私の所属するノートルダム・ド・ヴィの本部のマリア像は右足を前に踏み出してるのですが、私たちも暗夜が必ずある信仰の旅路で、このマリアと共に歩みたい。十字架の前に立つ母と共に。私たちもこの一歩を踏み出すために。

 

 (文責・月刊誌編集部)

 



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