エリ、エリ、レマ、サバクタニ

新番組  一期一会のみことば 
加藤 智(カトリック・さいたま教区司祭)お相手・長倉崇宣
4月1日(土)放送「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」マタイによる福音書27章1~54節

FEBC月刊誌2023年4月記事より

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マタイによる福音書 27章

11そのとき、イエスは総督の前に立たれた。総督がイエスに尋問した。「お前がユダヤ人の王なのか。」イエスは言われた。「それは、あなたが言っていることです。」12祭司長たちや長老たちから訴えられている間、これには何もお答えにならなかった。13するとピラトは言った。「あのようにお前に不利な証言をしているのに、聞こえないのか。」14それでも、どんな訴えにもお答えにならなかったので、総督は非常に不思議に思った。15ところで、祭りの度ごとに、総督は民衆の希望する囚人を一人釈放することにしていた。16そのころ、バラバ・イエスという評判の囚人がいた。17ピラトは、人々が集まって来たときに言った。「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか。」18人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。

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21人々は言った。「バラバを。」22ピラトが言った。「では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか。」は言った。「十字架につけろ。」23ピラトは言った。「いったいどんな悪事を働いたというのか。」群衆はますます激しく叫び続けた。「十字架につけろ。」24ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て、水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」25はこぞって答えた。「その血の責任は、我々と子孫にある。」26そこで、ピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。

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38折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。39そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、40言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」 41同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。
42「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。43神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。わたしは神の子だと言っていたのだから。」44一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。45さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。46三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。


加藤神父:
この受難物語は、カトリック教会の礼拝では「群読」をするということになっています。いつもは、福音書については司祭ないし助祭が朗読いたしますけれども、例えば「十字架につけろ」など群衆が叫ぶような部分は会衆全体が参加して読むのです。そのときに私たちは、一体この物語の中の「誰」なのだろうということを思わされる。言うならば、十字架につけられたキリストご自身がそこに立ち現れてくださり、私がその主イエスに圧倒されていくのです。

長倉:
キリストとの出会いは、自分が何者であるかが問われるという事でしょうか?

加:
そうです。以前にお話しましたが、私はお寺で育ちました。父は仏教の坊主です。私自身も僧侶の修行をしました。父は先の戦争で人を殺してしまったのですが、仏教では自分で罪を償っていくしかありません。だから父は一切弁解しませんでした。戦争だからしょうがないなどとは言ったことがありません。しかし、私はそんな父の姿を見ながら仏道修行する気を無くしてしまったのです。父はとても優れた人でした。けれども、いざ戦争が起こればこんなことになってしまう。私も例外ではない。これではあまりにも惨めではないかと。神や仏がいるならば、その戒律が守れない者たち、守れなくなった者たちをどうされるのかと思ったのです。 しかし、ある時キリスト教会の会堂に入って、十字架のイエス様の御像の前に足がすくんだという経験をしました。これは一体何なのか、この方は一体誰なのだと思いました。そして、その時すぐにそこを逃げ出したのです。怖かった。しかし不思議なことに、繰り返しそこに帰る、いや帰らざるを得なかったという体験をしたのです。

長:
何が神父様をとらえたのでしょうか?

加:
イエスの十字架です。教会で私は尋ねました。これは何ですかと。すると「主が肉を裂き血を流された。この十字架がそうだ。」と教えていただいたのです。その時、私は本当に驚きました。なぜかというと、12世紀に日本に禅宗やお茶の文化を伝えた栄西というお坊さんの言葉に「仏智を思うに、仏、身肉手足を裂きて施さん。」とあるからです。つまり、仏は自分の身を裂いて、弟子たちを生かそうとするのだと確かに聞いてきたのです。だから、教会の方から「これこそが聖書の中心だ」と聞かされた時は、本当に腰が抜けました。

長:
けれど、今までの生き方から外れることに迷いはなかったのですか?

加:
私は仏教の教えに支えられ、それを体得することで、いわば色々な衣で身を包んでいた。それで体裁ができていると思っていたのです。しかし、それができなくなってしまった。もう自分を隠すことができなくなっていたのですね。そういう体裁を整える私に対して、十字架のキリストはご自身の全ての衣をはぎ取り、裸という形で私と会ってくださったのです。しかし、それは認めたくない自分でもあるわけですよね。人は裸で生まれ裸で死んでいくと聖書にありますが、裸の自分など認めたくないわけです。それは惨めな自分だからです。けれども不思議なことに、私はほっとしたのです。もう偽る必要はないのだと。

キリストは私にとってあまりにも思いがけないお姿でした。それは、たとえば律法学者たちもそうですよね。思い描いていた神の姿とは違っていた。しかし、それは誰に対してもキリストはキリストなのだということを表しているのではないでしょうか。マグダラのマリアをはじめ、キリストが捕らえられたときに逃げてしまった弟子たちにも、あるいはキリストを歓呼して迎えてから数日後に十字架につけろと叫んだその群衆たちも、この世の知恵ある者や力ある者たちに対しても、そうではなかったかと思うのです。

この受難物語の結びに、ローマの一兵士が出てきますよね。彼はひょっとしたらこの神のことを聞いてすら無かったかもしれない。しかし、神はあえてその異邦人である彼に「まことにこの人は神の方であった」という言葉を授けた。それは、善人にも罪人にも、すべての者にとって、この十字架のキリストこそがキリストなのだと告げるためにだと思うのです。

長:
イエス様ご自身は苦しみをひたすら受け止められ、お語りになった言葉といえば、最後の「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」ぐらいです。しかし、この言葉を聞いたときに何と言うのでしょうか、先程神父様が言われた「逃げ出したい。けれども何か離れることができない」そういう思いが私の心にもわき上がって来ます。

加:
礼拝の群読では、この「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言うイエスの言葉を司祭が読むのですが、それまで会衆が語る群衆の言葉を聞き続ける訳です。本当にこの場面は人間の言葉で満ち溢れていると感じます。しかしそういう中で、実はまさに十字架のキリストご自身が、神の御言葉としてそこに立ち続けておられる。「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」と旧約聖書にある通りに、まさに神の御言葉としか言いようがないキリストの姿です。それは私の虚しい言葉を一切、そこで消え去らせてくれる神の御言葉です。 だから、この私がむしろ言わなければならない言葉をキリストは教えてくれているわけです。それが「わが神、わが神、何故に私をお見捨てになったのか」ではないでしょうか。

長:
えっ!それが、私たちが言わなければいけない言葉なのですか。

加:
そうです。これだけだと私は思います。それは、神が私を救えないと言うのではありません。むしろ逆です。私の考えている神は、もはや私を救えないのです。しかし、それでいいのです。なぜなら、真の神がそこにおられるからです。もう自分を救ってくれるような神を、私たちがいろいろ考える必要はない。そういう生き方はそこで終わる。キリストの十字架のうちに、キリストの十字架と共に、その生き方は死んでいい。そういう私は死んでいい。そこで、十字架のもとに立ち続けるのです。神の御言葉、すなわちキリストは、だから、決して神を失うあなたを神が見捨てることはないと言えるのではないでしょうか。これが神の御言葉なのです。

そして、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」っていうのは、十字架の頂点になる言葉にして、これは皆さん一人一人がご自分でキリストから聴くしかないことだと思います。キリストしか答えようがない言葉ですよね。ですから、キリストの十字架、受難物語というのは一番実は雄弁に語っておられるのは、神ご自身です。だからこそ私たちは生きていけるんだと思うんですよね。

長:
イザヤ書の預言がここで成就したという、それこそ私たちが頭でわかった気になるメシア像をはるかに超えて神の救いの生々しさがあるように感じました。

加:
はい。特に苦難のしもべの歌と呼ばれてるイザヤ書52章13節から53章全体は、預言と成就というようなことでは済まされない迫力があるのではないでしょうか。旧約聖書の最初の創世記の冒頭では「神は光あれと言われた。すると光があった」と語られます。その真の意味を、神の御心を、私たちは主イエスという御方として見ることが許されたのですよね。けれど、この御方は目に見えないのです。そうすると悲しい事に、私たちは勝手なイメージをつくっていってしまいますよね。つまり、目に見えない御方をどう見るかという問題は私たちにあるわけです。しかし、だからこそのキリストの礼拝ではないでしょうか?

私たちは礼拝に集まります。そして、聖書を朗読していると、会衆の中で涙を流していらっしゃる人がいますよね。その時、まさしくその方は目に見えない事実を主キリストとして見せていただいていると思うのです。それは礼拝とは何かが問われていることでもありますよね。

 (文責・月刊誌編集部)

 



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