疑いの只中に立つ、復活のイエス

日曜礼拝番組 イースター礼拝 全地よ、主をほめたたえよ 
井幡 清志 牧師(日本基督教団石動教会)
4月9日(日)放送「御心は、世の片隅に注がれる」(ヨハネ11:25~26)

FEBC月刊誌2023年4月増刊号記事より

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わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。(ヨハネ11:25~26)


 ある映画監督の祝辞が批判を浴びているということで、気になって発言内容を見てみました。こうです。 「今、世界はあるひとつのバランスを失って、かけがえのない命が奪われる現実を見ることとなりました。戦争を世界から無くしたい。…しかし、ひとつの映画で戦争は無くなりません。残念ながら、世界は『小さな言葉』を聞いてくれません。…例えば、ロシアという国を悪者にすることは簡単であるけれども、その国の正義がウクライナの正義とぶつかり合っているのだとしたら、それを止めるにはどうすればいいのか。一方的な側からの意見に左右されて、ものの本質を見誤ってはいないだろうか。誤解を恐れずに言うと、悪を存在させることで、私は安心していないだろうか…。」


 私は、この映画監督の言葉を何度も読んで、この方が本当は何を言いたかったのだろうかと考えていました。この言葉は随分と言葉足らずです。今起こっている事は、平和を維持する責任のある一つの大国が国際法を犯して他国に攻め入り、人道に反することを行っている。これを相対化するかのような誤解を招く発言に批判が起きても当然でしょう。しかしその上で、この監督が学生に何を伝えたかったのかと思いました。それは、確かに私たちは沢山の情報に流されてしまい、正しい判断が出来なくなることがあるからです。だから、一つの見方だけではなく「もっと本質的な人間の問題」にこそ取り組むべきではないかと思いました。もちろんこの監督も憤っているはずです。かの国の大統領が自分にこそ正義があると言いながら酷い仕打ちを繰り広げる様に。だからこそ平和を願う中で、むしろ人間の限界や自分の無力さを感じているのかもしれません。


 今日は、教会にとって一番大事な主イエスの復活の祝いの日です。復活は人間の常識では考えられないことです。私たちも復活の出来事を直接見た訳ではなく、聖書を通して信じているのです。では、その聖書はどう伝えているか。イエス様のご生涯は神様の御心を伝えるためのものでありました。ところが当時のイスラエルの指導者は、イエス様が伝える神様のお姿が自分たちが信じてきたものとは違うと反発し、「そんな馬鹿なことがあるか」と思ったわけです。それは正義がひっくり返ってしまうという恐れでしょう。これは何時の世も自分の正義を守ろうとする時に起こることです。真面目に熱心に正義を守ろうとしている。そのために、違ったことを言う人間は危険だ、その声は消し去った方がいいと考える。現代でも自分の流儀や価値感に反するものは徹底的に潰しにかかるようなことはあり得ることです。そして、それは自分の正義に確信があるからではありません。むしろ逆に本当には信頼できていないからではないかと思うのです。相手を攻撃するのは、自分の不安と恐れに抗おうとする現れなのではないかと。なぜなら、聖書はイエス様がそのようにして十字架につけられたと語るからです。
 そのイエス様は十字架の上から祈っておられます。「神よ、彼らを赦して下さい。何をしているのか分からないのです。」この祈りの中に、神様のお考えが本当によく表れている。神様は人間への赦しということをひたすら見つめていらっしゃる。それは復活の時、イエス様が明らかにしてくださった。十字架は「それでも神は、あなたを赦し、愛している」ということだと。それは、私たちそれぞれが自分への疑いを抱えても、それでも与えられているこの命の信頼に堅く立つことが出来ようになるため、そのために主は甦って下さったということです。
 どんな人でも人生の課題でもがき苦しみます。そうやって人は命から死へと向かって歩みます。そしてこの道は、死という最後までは誰も一緒に歩んでくれるものではありません。一人で背負う他ないのです。この中で私たちは冒頭の今日の御言葉を聴きます。イエス様は死んでいく私たちと共にいようとなさる。それはイエス様は生きているからです。
 このイエス様が共におられなかったなら、私たちは自分の人生のそれぞれの戦いに丁寧に関わることが出来るでしょうか。自分の人生に誠実であることが出来るでしょうか。


 この映画監督は「世界は『小さな言葉』を聞いてくれません」と嘆きました。しかし、イエス様は違います。だからこそ、私たち一人ひとりが自分に語られるこの御言葉に耳を傾けることで、世界はその片隅で確かに変わっていくのです。それが、神様がイエス様においてこの世界を愛し導かれる時の為さり方だからです。

 (文責・月刊誌編集部)

 


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