逆転の主


日曜礼拝番組 ペンテコステ礼拝 全地よ、主をほめたたえよ 
青木豊牧師(日本キリスト教会高知旭教会)
5月28日(日)放送 「教会はカリスマ共同体」ヨエル3:1~5、1コリント12:1~11

FEBC月刊誌2023年5月記事より

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ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。

(1コリント12:3)

 聖霊降臨日の礼拝で与えられておりますこのところで、パウロは語ります。私どもが切実な思いで心に刻み、忘れないでいること、それは「イエスは主である」ということなのだと。この最も短い信仰告白は、私どもが聖霊を受けている証であります。
 パウロがこのように言わなければならないのには、理由がありました。このコリント教会は霊的な働きが豊かに現れている教会でした。しかし、それゆえ教会では霊的な力を発揮しているということを競い合い、自慢しあっていたようです。だからパウロはこのように語らねばならなかった。というのは、「イエスは主である」というこの告白の言葉は真に重大で、言葉では語り尽くせないほどだからです。


 遡ること出エジプトにあって、イスラエルの民に十戒が与えられた際に、山の麓で金の牛の像をつくって拝むという事件がありました。いかにも偶像礼拝であるこの出来事は、しかし、当の本人である彼らには、他の神様を拝んでいるつもりはさらさら無かったのです。エジプトから導いて来られた神様をイメージし、それに合わせて像をつくって拝んだに過ぎなかった。つまりこのことは他人事ではないということです。私ども人間は神を理解してイメージすると、必ず自分の好むような形で拝むということを意味します。
 そして聖書は、それは神ではないと語るのです。真の神は生きておられると。だから、私たちが勝手に神のイメージをつくり上げても、神ご自身はそれに囚われずに、そのイメージを越えていかれる。広がっていかれる。つまり、神様がご意思をもって御言葉を語られ、時に私どもの考えの過ちを正し、時に勧告をし、また命令をなさるのです。
 ただ驚くべきなのは、私どもを有無を言わさず従わせる神ではないということです。私どもが神様の御言葉を聞いて、自分の自由な意思によって、それに応えることを喜びとなさる。神様は命令通りに動く奴隷ではなく、「子」を望んでおられる。ここにこの神が実に不思議な主人であることが表れています。


賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。…ある人には“霊”によって知恵の言葉、ある人には同じ“霊”によって知識の言葉が与えられ、 ある人にはその同じ“霊”によって信仰、ある人にはこの唯一の“霊”によって病気をいやす力、 ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています。これらすべてのことは、同じ唯一の“霊”の働きであって、“霊”は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。

(4、8~11節)

 先の言葉に続くこの箇所で、実は私はちょっと戸惑いました。奇跡を行う力、病気を癒す力、異言を語る力…。一体自分は何を持っているだろうかと。しかし、そう考えるのは間違いであります。
 エリクソンという学者が、人間の心の発達段階として、子供の頃は自分は何でも出来るし何にでもなれると思っているが、成長するにつれ、自分のことが段々分かって、自分が平凡な人間だということを知る。そういう自分を社会全体の中に位置づけることができるようになるのが大人になるということだというのです。それは、教会においても変わりありません。平凡な人間、平凡な信仰者にも、いや、だからこそ、その果たすべき役割があり、意味があるのです。そうです。それが、誰にでも与えられている賜物、神様からの贈り物がある。「イエスは主である」と告白する信仰です。これは人間の能力ではありません。


 ここでパウロは「イエス・キリストは主である」とも「キリストは主である」とも言っていません。あくまで主語は「イエス」なのです。人間イエスということです。この時、パウロは何を思い起こしていたでしょうか。それは何よりも十字架につけられたイエスであります。人々と共に生き、そこで苦しみ、十字架で死んで、葬られたイエスなのです。
 しかし、そのことを弁えてなお、私には躊躇いが、いや抵抗すらある。「イエス」と呼ぶことを。なぜなら、十字架でこそこの御方が神であることが顕になったからです。十字架につけられたのは、他ならぬ「主イエス」であるからです。私どもの不信仰、反抗、無気力、正しく応答し得ないこと、それらを全て引き受けて十字架にかかって下さった御方、イエスこそ私どもの主、主人なのだ!パウロは、誇らしい喜びをもってそう語った。


 この主人が証したその姿は、私どもが知っている他の主人とは違うのです。逆転しているのです。私どもの主イエスは、仕えてくださる主人。


 私どもは平凡な者であります。なお劣る者であるかもしれません。それでいい。いや、それがいい!だからこそ、私どもは私どもに仕えて下さるイエスを主として仰ぐことが出来る。ここにこそ、この主人のご愛が私どもに注がれるのです。霊の賜物として。そしてこれは、分かち合うため、全体の益となるために与えられます。聖餐に与って私どもは霊を受け、一つの体に結び合わされていることを喜び祝おうではありませんか。全ての人に、「イエスは主なり」とする信仰が聖霊によって与えられているのですから!ここに自分のイメージから解放される道、僕に仕えるという逆転した主人に従う自由な人間の道があります。

 (文責・月刊誌編集部)

 


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