解放者

聴く信仰—「いのち」をいただく御言葉黙想 
山内 十束 (カトリック・御受難修道会、宝塚黙想の家司祭)
5月8日(月)放送「今、私に語られる赦しの言葉」マルコ2:1~12

FEBC月刊誌2023年5月記事より

・・・

 戸口まで、隙間もないほどに人が集まってきた家。
イエスに会うために集まってきた人々の顔つき。
中風の人の癒やしとして知られている聖書の言葉を思い巡らしましょう。


イエスが御言葉を語っておられると、 四人の男が中風の人を運んで来た。 しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので…

(マルコ2:2b~4a)

 中風の人。病のため全く動けない人。それは死をイメージさせます。それは体だけではなく、心が硬くなってしまっている。祈ることも難しい姿を表すものです。
 さらに「群衆に阻まれて」という言葉が重なります。単に動けないだけではなく、この人は何らかの理由で群衆に阻まれてしまう人だった。


イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。

(2:4b)

 屋根をはがして穴を開ける。イエスと出会うためには一つの戸口しかないわけではない。
人々に阻まれてしまう中風の人。
 苦しみの中に一層の苦しみを背負わなければならなかった人ですが、マルコ福音記者はイエスと出会うための道は一つではないと語ります。


イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。

(2:5)

 新しい戸口が作られてゆく。
屋根を剥がして穴を開けていく人々の姿をイエスは見ておられる。
そしてイエスは、自ら動けず、阻まれている人に向かって言われたのです。

 「子よ、あなたの罪は赦される」。

 イエスの言葉は宣言です。罪に対する命令です。


ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。

(2:6)

 座っているというのは、同じように動けない人間の姿を表そうとしているのかもしれません。なぜなら、確かに律法は神から与えられた良い掟。律法学者はそれを必死に生きようとしている。しかし、だからこそ動けなくなってしまっている。


「神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」

(2:7)

その通り。しかし、神の言葉である律法にしがみついて、今、自分の前で語られているイエスの言葉を受け入れることができないのです。


イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」

(2:8~10)

 イエスの福音は、神と私、そして私と隣人の関わりをも作り上げていく言葉。神の言葉を必死に生きているにもかかわらず、そのような考えを心に抱いてしまうのかと嘆かれるイエスの顔を、よく黙想してみましょう。
 なぜなら、イエスが罪を赦す権威を持っているのはイエスだから。そして、中風の人に言われます。


「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」

(2:11)

 「わたしは、あなたに言う」。ご自分と今という時を結びつける言葉。
 そして家とは、自分の家と、神の家の二つの意味を持ちます。
 あなたのいる場所は、ここではない。家に帰りなさい。あなたに向けられた言葉です。


その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。

(2:12) 

 これまで、動けない、悲しい、苦しい、許せない…様々な思いが、その人を包み込んでいた。にもかかわらず、今、イエスの言葉によって、神に出会うために全く自由になって皆の前から出ていく。この人の姿を黙想したいと思います。それを見た人々にも、また神との出会いが起こり始めているからです。

 (文責・月刊誌編集部)

 


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