
一期一会のみことば
加藤 智(カトリック・さいたま教区司祭)聞き手・長倉崇宣
7月1日(土)放送「それぞれの家族の『死と復活』」マタイによる福音書10章37~42節
FEBC月刊誌2023年7月記事より
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「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」(マタイ10:37~42)
新共同訳聖書の小見出しには「平和ではなく剣を」とつけられていますが、本当にびっくりするようなキリストの言葉ですよね。ただ少し先まで読めば、イエス様が12人の弟子たちを選び出して、宣教に遣わす際に告げた「結びの部分」であるということがわかります。では、なぜこんなことをイエス様は語ったのでしょうか。
その前提となる箇所をみてみましょう。12人の弟子を選ぶ直前の9章35節から38節に「群衆に同情する」という小見出しの箇所があります。ここにはこうあります。
「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」
イエス様は弟子たちを派遣される前に、ご自分で「残らず」、つまり全ての町や村を回っておられた。キリストの全てには例外がありません。時や場所を超えて行かれる御方ですから、私たちの町や村も含まれているのです。まず、私たちがその御姿を見えるかどうか、見ているか否かが問題ですよね。そして、そこでの私たちの姿は「飼い主のいない羊のように弱り果て打ちひしがれていた」というわけです。私たちは、このイエス様の言葉の前に立ち止まって、黙想する必要があります。私たちは何か自分の力で生きていくことができるように思ってはいないだろうか?それは、私たちの社会や人間の関係の中に、本当に愛はあるのか?という問いでもあります。
キリストはそのような私たちに、弟子たちを宣教に遣わされたのです。そこで弟子たちに託されたのは、穢れた霊に対する権能、さらにはあらゆる病気や患いを癒すわざ。つまり弟子たちはキリストの代理として癒す者として遣わされた。これは神父や牧師だけでなく、全てのキリスト者がそのように呼ばれているのです。そこにはキリストの愛がある。しかし、そうするとますます今日の御言葉は「あれ?」という印象を受けるのではないでしょうか。まるでキリストが「家族」に対して何か反感を持っておられるように思えるからです。しかし、イエス様の言葉も新約聖書も「無前提」ではありません。
―長倉 「無前提」ではないというのは?
そこには私たちが旧約聖書と呼んでいる言葉があります。今回の聖書箇所の直前の35節と36節でイエス様は「わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる 」と語っておられるのですが、これは預言者ミカが語った旧約聖書の言葉から来ています。
ミカは、イスラエルの王国が南北に分裂後、北イスラエルがアッシリア帝国によって滅亡させられた直後の紀元前8世紀の預言者です。残った南のユダも風前の灯火で、ミカはこの民に向かって神から言葉を預けられたのでした。元々イスラエルの民はエジプトで奴隷とされて人間としての生活ができなかったわけです。そういう人々を神は憐れんでカナンの地に移した。そこで神が求めたのは、「神を愛し、人を愛する」こと。つまり、神が人間に与えた命の尊厳を守り生きてほしいというものでした。しかし、神の民イスラエルは、「神を捨て、人を捨てる」ような状態になってしまった。力ある者は権力を意のままにし、貧しい者が捨てられていく。神に対する信仰も、エリートの特権になってしまいました。 イエス様が見た人々の姿はこれです。ご自分で全ての町や村を見て、そこに生きる一人ひとりをご覧になった。そして、「憐れまれた」とあります。この言葉は胃であるとか腸や内臓が引きちぎられるというものです。その壮絶な痛み!神の民イスラエルが、小さなエジプトになってしまったのですから。
だから、イエス様は、私たちに「死と復活」を求めておられる。そこには私の家族や人間関係もあるのです。
―長倉 「死と復活」ですか?
はい。このことは私自身が体験したことでもあります。以前もお話ししましたが、私の父は僧侶でしたが、先の戦争で人を殺しました。仏教の第一の戒律は人が人を殺してはいけないことです。その罪を犯した時には、5劫あるいは12劫、1劫は56億7000万年ですから、最長700億年に近い懺悔を求めるのです。だからこそ輪廻が必要とされる。それは罪を懺悔する倫理的な養成の時なのです。その意味で仏教は極めて高い倫理性を持っていますし、父自身もそうであるべきだといつも言っていました。しかし、罪を背負い苦しむ父の姿を見て、もし戦争がなかったらとの思いを禁じ得なかった。さらに言えば、私はどうなのかと。私は今修行して、ひょっとしたら人格を完成することができるかもしれない。けれども、その人格の完成は、「戦争がなければ」というような条件付き。条件付きの人格の完成なわけです。
その後、私はイギリスの教会でキリストの磔刑像を見て、仏門の途上でその姿に圧倒される経験をしました。私はそこで十字架の事を教えてくださった神父に、こう尋ねたのです。「私が父に代わって洗礼を受けたら、父の罪は赦されていくのでしょうか?」と。その方はこう答えられました。「あなたの思いはよくわかった。でも、あなたが洗礼を受けるのなら、それはお父さんの身代わりなのか?」と。もちろん、これは私自身の罪のための十字架です。決して父の身代わりではない。しかし、同時に、確かにそれは父のためでもあったのです。
私が司祭になった時、父は私を勘当しました。しかしその後、私は母に、そして重い障害を持った妹に、さらに最後には死の間際の父に洗礼を授けたのです。私は父にこう言いました。「お父さん、よかったね」と。「70年間、罪の懺悔を続けたことを神様は知っているよ。だから、699億9930年の懺悔はイエス様の十字架に託そう」と。そして洗礼を授けた。父は涙を流していましたね。このようにして、キリストは私たちの家族の価値観、道徳や倫理、あるいはその人間観、人生観を一度お終いになさった。その上で神の愛にもう一度復活させてくださったのです。
―長倉 私たちは皆一度死んで、復活させられなければならないんですね。
さらに言えば、この「人は父に、娘は母に争う」というイエス様の言葉は、未完了を意味するギリシア語のアオリスト形という特別な形で書かれています。それは「神の目に見えている事実だけれども、神がそれを語ることを逡巡している」というような不思議な語り方です。けれどもこの元の言葉を語るミカは、実は次のように語り続けていきます。「しかし、私は主を仰ぎ見る。私の救いの神を待ち望む。私の神は耳を傾けてくださる。」このミカの預言の後に南ユダは滅びます。もちろん北イスラエルはすでに滅んでいます。では、神の希望を語るミカのこの預言は無意味だったのでしょうか?
神の目の前には滅びという厳しい事実が明確に見えている。しかし、それを語るのを躊躇われる。それはなぜか。神には既に一つの決断があるからです。死んだイスラエルを、神の民を、もう一度神が復活させてくださる。だからこそ、キリストはこの言葉の後で12人の弟子たちを遣わされる。私たちの罪による現実、人間の弱さによる現実。弟子たちを遣わすのはご自分が十字架を一切負いぬかれるため。ミカが預言するのは、この神の覚悟ではないでしょうか。だからこそ、十字架についたキリストと一緒に、私たちをもう一度この神の新しい命に復活させる。これがキリストの宣教なのです。
(文責・月刊誌編集部)
