
FEBC特別番組「神のグリーフ」
吉川直美(シオンの群教会牧師)聞き手・長倉崇宣 (日本FEBCパーソナリティー)
9月8日(金)放送
FEBC月刊誌2023年9月記事より
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◆喪失を通して、更に深みへ
—先生がグリーフケアに携わるようになられた経緯をお教えいただけますか。
2012年に、アメリカの教会の支援で開かれた、東日本大震災被災者の心のケアをするための「災害対応チャプレン」の研修会に出席したんです。その出席者が自分たちでも研修会を行うようになり、私自身、神学校で霊性やスピリチュアル・ケアを教えていたこともあって関わるようになりました。その中で「災害ケアはグリーフケアなんだ」と知るようになったことがきっかけで、もっとグリーフケアのことを深めていく必要があるし、教会でもグリーフケアのことをもっと知って欲しいと思うようになりました。
そもそも聖書そのものが、喪失と再生の話だと私は思います。つまり、神様ご自身が創られた世界から人間を喪失してしまったという、神様の痛みから聖書は始まっています。そして、人間もそのことで神様との関係を喪失し、死すべき存在となってしまった。死によって、大事な人を失い、自らもこの世界から失われていく存在となってしまった。その喪失の痛みや悲しみを、神様ご自身が知っておられるんです。愛する人間が自分のもとを去って帰ってこないという喪失を、神様が経験しておられる。だからこそ、その人間との関係を回復させるために独り子を世に送って下さった。それ自体が神様にとっては大きな喪失であるわけですが、そのことを通して人間を死という最大の喪失から取り戻して下さった。この時、一度失われてしまったものを元通りに回復するというのでなく、喪失を通して神様との関係がより深いあり方に変えられていくというのが、キリスト教の本質にあるのではと思います。それは言い換えると、キリスト教は本質的にグリーフケアなのではないか、ということです。
例えば、エマオへの旅人の話も(ルカ24:13~35)、イエス様は弟子たちの絶望や痛み、不安を聴いて下さった上で、「聖書にこう書いてあったでしょ」とそれらを語り直して下さる。そう語り直された時に、それが絶望で終わるのではなくて新しい命の物語なのだと、心燃やされて目が開かれる。つまり、自分の物語は神様の物語の中にあるのです。しかし、それを頭で分かる以上に腑に落ちるには時間がかかる。それに付き合っていくのがグリーフケアなのかもしれません。
◆私の疼く傷を見つめながら
—先生は、どういう思いで痛みを抱えた方々の傍らにおられるのでしょうか。
本当に聴くことに徹したい。「話の内容」だけでなく、その方の心がどう動いているのか。そして、話を聴いている自分の心がどう動いているのか。こちらの心が動かないと話を聴いていることにならないからです。そして、話を聴いている内に「ちょっとしんどいな」「辛いな」と感じることも正直に認める。自分の心のあり様も認めていくことが、他人の心にも誠実であることなのではないでしょうか。
—とても繊細なお働きですね。
それを自分が出来ている訳じゃないんです。やっぱり欲が出るんです。相手を慰めたい、立ち直って再生のきっかけになって欲しい、こういう方向に話が行ったら良いなとか…。でも、だからこそ、その人が話したいように話してもらう。それでその人がもう一度ネガティブな思いに戻ってしまったとしても、こちらでコントロールしない。ただ待つんです。
—でも、その「待つ」は難しいですよね。それに、その方が抱えた痛みや悲しみの中に入っていくことは、聴く方にとっても怖いことではないでしょうか。
確かに、牧師のスタイルを保ってこちらの土俵に入ってきてもらうのと違って、それは相手の世界に裸で入っていくようなものです。そこでは、自分の本性が曝け出されてしまいますから、怖いです。自分自身の傷と重なって疼いたり、色んな感情が出てきてしまうことも。でも傷が疼きながらも、その話を聴く中で思うのは、本当に傷の無い人はいないということです。その中で人は、イエス様と出会ったり、距離を取ったり、その関係が回復したりしている。本当に、色んな人が色んな人生の中で葛藤しながら、それでも生きている。それでもイエス様と繋がっている。それを見させて頂いてきたことで、自分も大丈夫なんじゃないかって思う。他人の傷によって自分も守られているような…。それはその時すぐ回復するというより、蓄積されていくもののような気がしています。ヘンリ・ナウエンの『傷ついた癒し人』の中に、傷ついて包帯を巻いた大勢の人の中で、皆は包帯を一気にほどくのに、傷ついた癒やし人は解いては巻きを繰り返しているという不思議な話があって、一体どういう意味なんだろうと思っていたんですけど、それに近いというか…。傷ついた人の話を聴くことで、自分の包帯がほどけて、自分も自分の傷を見ることになる。でもそのことによって、解いては巻き直しというふうに、自分の痛みと付き合っていくことができる。だから、傷や痛みは目を背けることではなくて、傷を通してこそ、私たちはイエス様を見ることが出来ると思うのです。
◆「悲しむ権利」の拠り所
抱えた悲しみの中身にも依るので軽々しくは言えませんが、私は「ちゃんと悲しみたい」と思う。確かに聖書には「いつも喜んでいなさい」と書いてあるし、「神様は最善にしてくださるから、そんなに悲しんでいないで」と言う人もいる。でも、私たちには「悲しむ権利」があると思うのです。ある意味では「簡単に元気になるつもりはないぞ」くらいの思いでいていい。というのは神様も、私たち人間を失ってそのままではいられなかった。神様ご自身が一番、愛する者が失われ死にゆくことに対して、耐えられない程の痛みを感じて下さる御方だからです。そしてこのことが、私たちが「ちゃんと悲しむ」時の支えなんです。私たちよりも先に神様ご自身が深く悲しんでおられた…。
どんな人であっても、どんな罪の中に陥っている人であっても、皆「神のかたち」に似せて創られた者なんです。しかし、それが回復されるというのは、健康になったり間違ったことをしなくなることではない。それでも「神に愛されている人」だということ、それだけが私たちの唯一の拠り所だと思います。そして、それは苦しみの渦中にいらっしゃる方に語るべきことではなくて、その傍らにいる「私」が信じることなんです。「神様はこの方をきっと祝福して下さる、決して見捨てない」と信じて、今日も傍らに居させて頂きたいと思います。
(文責・月刊誌編集部)
