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私達にとっての殉教

「殉教」と言うと、すぐに私達に思い浮かぶのは、
キリシタンに代表されるような「昔、命がけで信仰を守り通した立派な人たち」
というイメージでしょうか。

しかし、今回の特別番組「主の平和の証人たち―殉教者の信仰から(再)」
古巣薫神父さまが語るのは、「殉教」が今の私達の生活とも地続きのものである、
ということです。

「殉教者」とは、御言葉を受け止めて、その命を何一つ無駄にしないように生きた人たちだと思うのです。ですから今でも、その意味での証し人がたくさんいるんです。キリシタン時代では、斬首や火炙りになった人たちを殉教者としますが、それは人生の最後の部分であって、その前から彼らが日々の生活の中で何を捨てて何を選んで生きてきたのか、何を証ししたのか、そこが大切だと思うのです。例えば自宅で介護をしている人です。…

自宅介護。キリスト教と直接は関係ないようなそれが
真っ先に例えとして挙がってくることに
違和感や、驚きをおぼえる方もおられるのではないでしょうか。

でも、言われてみればそうなんです。
確かに私は、「殉教者たち」のその劇的な「終わり」の部分しか
見てこなかったようにも思うのです。

最後の死の瞬間だけ勝負しているんじゃないんですよ。毎日その人が選んで来た事なんです。その延長線上に最後の事柄があった。日々その人が何を選んで、何を捨てて生きてきたか。どんなに貧しくても、どんなに不条理な人生でも、イエスの福音を一番の支えにしているんです。「私は道、真理、命。私を通らなければ誰も父のもとには行けない。」とイエスが言われたその道を辿っていこうとした。そのために自分の十字架を担いで行ったんです。

あなたの十字架とは、何でしょうか。あなたは何を選び、何を捨てるべきか。
一人ひとりの殉教者に語られる主のみ声を、
古巣神父さまのお話から求めていきたいと願います。

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