対話で信仰を受け渡す試み
高齢化が進む日本の教会。次世代への信仰のバトンタッチと言っても、
ある種の諦めすら抱く私たちを見て、主イエスは何を語られているのか?
「腹を割って語り合う。」ここからだけ出発できると信じ、FEBCの若いスタッフが、
日本基督教団石巻栄光教会牧師、東北ヘルプ代表の川上直哉先生にお話をお伺いしました。
服部 これからの宣教の軸として「私の救い」ということを先生は挙げられていますが、「今ここで、救われているか」と自分自身に問うと、簡単には答えられないなって思うんです。
川上 でも、神学の救済論って、あれは机の上の話でね。いわば「死んだ後やるようなこと」なのかも知れないですよね。現場ではいつも「今、救われなきゃ」っていう神様との格闘があるだけですからね。
服部 ということは、川上先生も確信がないこともおありなんですか?
川上 もちろん。そういうものじゃないかな。み言葉に立つってことは。「信じる」って身体のどこでする事なんだろうって話がありましてね。どこですると思いますか?
このご質問。頭、もしくは心という答えが多いのではないかと思います。
私自身も、多分…心かな?と考えたんですよね。
でも、先生の指し示す場所はあの意外な場所。
「信じる」ということが、どういうことなのか。それが改めて語られます。
川上 実はここに来て反省したんです。それまでは傲慢でね。ここでは高齢の人がいて、病気の問題もある。「今までの自分では駄目だ」って思った。私はもともと学問をやろうと思ってたし、牧師は自分には向かないってね。でも、ここにきて6年になりました。ありがたいですよね。本当に神様は変なことをされると思う。それには被災地でやってきたことが役立った。それこそどんと突き出されて、「神様、どこにいるんだ」って自分の信仰を問わざるを得なかった。「苦しむこの人たちに必要な福音って何だ」って。
神様は本当に変なことをされる。でも、ありがたい。
理解できたから、確信があるから。そういう人の事情や思惑を超えて働かれる主イエス。
そのことにむしろ期待する道を、この時代だからこそ、
ご一緒に求めていけましたらと願います。