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土の器の祈り

お前は顔に汗を流してパンを得る
土に返るときまで。
お前がそこから取られた土に。
塵にすぎないお前は塵に返る。
(創世記3章19節)

放送中の「キリスト信仰としての『終活講座』」で加藤常昭先生は、土の器であることの惨めさから、こう語られています。

「衰えていく肉体を持つ人間が、なお人間であり続けるとはどういうことか」。

人の死はかつては忌むべきものとして隠されてきました。
人が衰えて死ぬことは耐え難く恐ろしいことだったからです。

現代ではどうでしょうか?
無視すべきものになったのではないでしょうか?

しかし加藤先生は、違うと言われます。
無視するのでも、諦めるのでもなく、祈り続けることだと。
そこで人となるのだと。

現在、FEBCでは国内献金の回復を願って、自立運営支援献金へのご協力を訴えています。
実は、このこととも深い関係があります。
なぜなら、献金は神へ自分を捧げること。それ自体が祈りなのです。

だから、献金もまた独り御前に立つことが求められます。
自分の祈りを、その人生を、他の人に代わってもらうわけにはいかない。
それは何故か?

主イエスこそ、今あなた様に真向かっておられるからです。
あなた様を待っておられる。

死を隠蔽し無視する社会にあって、「死ぬのが恐い」という人の、その奥底の本当の願いを言葉にして、共に主イエスを仰ぐ。
この「祈り」という土の器の使命をあなた様と今一度分かち合いたいと願います。
日本に共に生きる人々のためにあなた様のご支援を心よりお願い申し上げます。

わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。 わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。
(コリントの信徒への手紙第二4章10、11節)