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今も何を祈っていいのかわかりません。

「恵子の郵便ポスト」に、今回このようなお手紙が届きました。

先日未明に職場の同僚が召されました。50歳になったばかりでした。

今の職場に私が転職した時、すでに彼女は乳がんの手術を受けてかなり経っており、親の介護のために自分の健康を後回しにし、痛みで救急搬送をされた時に要手術状態だったそうです。家族のことで家にいるとストレスだから職場の方がいい、と夜勤などの大変な仕事を続けていました。

以前は、彼女の病の回復を祈っていましたが、一昨年あたりからなにか自分が形だけの祈りしか唱えることができていない。彼女が余命宣告を受けたと聞いてから、彼女のそばにいてくださいと祈るのがやっとでした。今も何を祈っていいのかわかりません。何が言いたくてこのメールを書いているのかわかりません。祈れない私の代わりに祈ってくれる人が欲しいだけなのかもしれません。暗い内容のメールですみません。読んでくださりありがとうございました。

本当にこころ押しつぶされるような状況をお聞きしました。
このように祈りが大切に思われるときこそ、
むしろ、自分は祈れていたのか。今は何を祈るべきなのか、わからなくなっていく、
その苦しみと悩み、整理のつかない思いが伝わって来るお手紙でした。

そして、「でもね」と恵子さんはお返事します。

でも、「自分が形だけの祈りしか唱えることができていない。」「私に代わって祈ってくれる人が欲しいだけなのかもしれない」とおっしゃるけれども、そう悩むことはあなた様の祈りだと思うんです。

「わからない」と悩むことが、祈り。
それは、どういう意味でしょうか。
あなたは、この不思議な言葉をどう聞くでしょうか?

ぜひ、ご一緒に放送をお聞きくださり、
祈りのわざの豊かさ、奥深さ、そしてそこに溢れる慰めを
改めて共に受け止めていきたいと願います。

放送を聴く>>