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Photo:“Dietrich Bonhoeffer in Black and White in Transparent Background”,
Wikimedia Commons,CC BY-SA 4.0

「主は問われている」

今月11月7日より「ボンヘッファー ヒトラーを暗殺しようとした牧師」という映画が公開されます。穏やかならぬタイトルですが、日本基督教団元教師の村上伸先生にお話を伺った特別番組「権力と信仰―ボンヘッファーの信仰に学ぶ(再)」でも、それが重要な問いを持つ出来事として語られています。

ボンヘッファーは、反ナチス闘争の先頭に立ち、ヒットラー暗殺を決断した人です。しかし捕まって、39歳で処刑されました。私が彼の名前を初めて見たのは神学生の時です。神学者のカール・バルトがこの彼の決断を良しとしたと知り、ショックで胸が静まりませんでした。それはキリスト教倫理から許されるのか?キリスト教信仰への裏切りと逸脱でなかったか?と。

殺人は、誰にとっても明確な悪です。
しかし、その最もわかりやすい悪を牧師が行おうとした。
だからこそ、この事実は未だショッキングに私達のこころに響き続けます。

「そんな事が許されてよいのか?」
「神にすべてを委ねるべきでは?」と。

でも。
自分自身が、そのような場に置かれたときにはどうするでしょうか。
今すでに、そのようなところに自分がいるとしたら?

この出来事に本当に向き合い得るのは、
むしろ自分自身が、主イエス・キリストから今何を問われているのかを
聞きはじめたときからなのだと思います。

私は思い出すのです。「人々があなたがたを連れて行って引きわたすとき、何を言おうかと、前もって心配するな。その場合、自分に示されることを語るがよい。語る者はあなたがた自身ではなくて、聖霊である。 」(マルコ13:11、口語訳)
ですから、一般的な原則をお答えすることは出来ないのです。この御方への信頼が決定的に重要だからです。

一つの答えではなく、一人ひとりのそれぞれの受け止めが必ず生まれる問いです。
ぜひ、番組をご聴取くださり、
あなた様のご感想もお聞かせくださいましたら幸いです。

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