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Mattia Preti – The Adoration of the Shepherds

2025年クリスマス礼拝

今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。(ルカ2:11〜12)

キラキラと華やかなイルミネーション。大きな大きなクリスマスツリー。
それらがあちこち街を飾り立てる中で、
「クリスマスはどこだ?」と、日本基督教団石動教会牧師の井幡清志先生は語られます。

最初のクリスマスに神が寄り添われたのは、何者でもない一人の娘マリアでした。彼女の婚約者ヨセフは、マリアが身ごもったため密かに縁を切ろうとした。正しさを貫くために。
…また神様が特別の仕方で寄り添われたのが占星術の学者たちです。神は預言者を通して語られると信じるイスラエルでは、占星術をする人は軽蔑されていました。
…そして救い主のお生まれを真っ先に伝えられた羊飼いたちは、イスラエルでは穢れとされる動物の血に触れることもあり、礼拝にも行けなかった。

マリアも、占星術の学者も、羊飼いたちも。
あの馬小屋に集まった人々は、当時のイスラエルの常識からすれば、
取るに足りないもの、また、蔑みの対象ですらありました。

もちろん現代からするとそんな考え方はおかしい!と思うわけですが、
しかし実際のところは、身近なところでも、または国同士でも、
互いに傷つけ合い、醜い争いが一向になくならないこの世界…

よくよく思い返してみると、
私達自身の姿も「ここ」に地続きであるのではないでしょうか。

この世の価値から離れて生きざるを得ない姿、あるいは人からはそれなりに見えても実は悩み、自信が持てない姿。そこに行動を起こされたのが神様でした。神様はそのためにキリストを送られたのです。そして仰るのです。「ベツレヘムの馬小屋、そこにあなたもいる。」

「クリスマスの輝きの影、そこに目を向けなきゃいけないんじゃないか?
当たり前の景色に慣れてしまわず、大事なことを見て取ろうとする心を持っているか?」
そうも語られる井幡先生。

この現実にこそ、主イエス・キリストはお産まれくださった。
今、クリスマスの時を通じて、
ひとりひとりに語りかけられる主の御声によって、
どうか私達もまた、新しく生まれさせていただきますように。

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