リスナーの声2

天の国で罪人は投げ捨てられる?

マタイ13章、毒麦のたとえ。世の中には良い麦と毒麦があって、毒麦は焼かれるものだと。
ここで「燃え盛る炉に投げ入れる」とされている「つまづきや不法を行う者たち」とは、罪人たる私たちのことだと思います。キリスト教とは、その私たちに代わり、罪なき御子が十字架で贖罪したことから始まっていると考えていた私にとっては、衝撃的な内容でした。むしろキリスト教に接する前の私は、正しい者が救われ悪は滅びるという考え方がしっくりきていました。そうではないはずのキリスト教を学び始めた者にとって理解に苦しむ箇所です。

14章で、恐れて信じ切ることができなかったペトロは「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と責められており、弟子たちですら「正しい人」にはなり得ないのです。私自身ももちろん。ただ、そうであることに真向い、その一切を神に委ねて生きていきたいと思っています。天の国で「投げ捨てられる」ことはないのでは?と信じつつ。


パワハラで退職し、不安で一杯の私にイエス様が…

ティールームを休んでいたこの1年半は私にとって大きな試練の期間でした。25年近く勤めた職場でパワーハラスメントに遭い、パニック発作が起こるようになって、ある日一方的に休職命令を受け、鬱を発症、自殺願望を抱くようになりました。7か月の休職後、新しい上司のもとで復職したものの、職場でフラッシュバックに襲われ、パニック発作も出るように…。上司からは「職場への敵意の表れでは?」と言われ、ショックでした。結局、定年退職することにし、今は新たな仕事に向けて準備しています。

そんな私がマタイ5章を読み、イエス様の「迫害する者のために祈りなさい」のお言葉に従いたいと願いつつ、今の私には難しいという気持ちでした。でもガイドに「神の前に自分の惨めさを投げ出して、ただ十字架とご復活の主により頼む人」とあり、とても励まされました。

6章では、老人ホームに入る母を支えていけるか不安で一杯の私にイエス様が「思い悩むな。まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、すべて与えられる」と力強いエールをお送り下さり、心にダイレクトに響いてきました。今この時にこの章を読んだのも決して偶然ではない気持ちがしています。


神社に参拝する母の姿をもどかしく思いつつ、でも…

数年前から、母は近隣の神社へお参りに行くようになりました。外出の機会も気力も激減した母にとっては、唯一と言っていいほどのお気に入りのお出かけ先であり、ちょうどよい散歩コースにもなっているので、私は一切否定的なことは言わず、実家暮らしが始まってからは、一緒にお供をするようになりました。

母がお参りしている間は、自分は後方で待ちながら、何となく周囲の様子や境内の木々などを眺めています。…心の中で讃美歌を暗唱していることもよくあります。以前放送のFEBC様の讃美歌は「この世はみな神の世界」でしたが、これを暗唱しながら神社の様子を眺めていると、ご参拝の方々も実は天地と全世界をお創りになった本当の神様への本当の礼拝をまだご存じないだけ。。。という思いがわいてきました。境内の木々が「そうね、そうね」と私の思いに賛同してくれるようにも感じられてうれしくなりました。

一方で、教会が提供できないものが、神社から母に与えられている様子なのが、悩ましくもどかしいのですが、悩ましいと感じてしまうのが自分の視野の狭さ、神様の恵みに対する不信仰なのかも、と思い返したりもします。


知人に聖書の素晴らしさを聞き、生きる力に

いつも知人から聖書の素晴らしさを聞き、生きる力にさせてもらっております。
私自身はクリスチャンではありませんが、プロテスタント系の学校へ通っておりました。何十年も前ですが、「自分を愛するように隣人を愛しなさい」という言葉に、そんなことはできないと思ったのものです。しかし今、人生、仕事において大切な言葉となっています。

知人に、FEBCに手紙を書いたら?と言われ、ペンを取りました。自身の心を整理する良い機会を与えていただけたことに感謝しつつ。


「信仰の道程は誰でもこういうものなのでしょうか?」

聖書の教えをそのまま素直に実践すること。日々の生活の中で人として正しいって感じる道徳を身に付けて行く時に、聖書の教えをわかった気がすること。この2つのパターンはどちらが良いのだろう。みたいなことをいつも迷いながら考えています。

クリスチャンとしての道を外れてしまう時も多いし、聖書をそのまま受け入れて実践するような人間には成れていません。一日一日生活する中どうしても信仰と主から外れてしまいます。

突然他人から優しくされる恵みもあります。その時には神さまに感謝します。そして、自分でも他者に優しくしたりしてオアシスのような時間があったりします。けれど、信仰を賜ってから何年、何十年経っても、コーチの教え通りに練習し試合で発揮して勝って、やったあ!と言ったことはほとんどありません。信仰の道程は誰でもこういうものなのでしょうか?


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