4-02:リスナーの声


ホントのぶどう酒、しかもとびっきりのぶどう酒に…!

母の介護が始まり、毎日忙しくなっております。そんな中、母が、私が母の財布からお札を抜いたと言うのです。私はもちろんやっておりません!悲しいことです。それでも聖書には「親を敬え」とあるので、必死に我慢しております。

このヨハネ2章では、水がぶどう酒に変えられたしるしが書かれています。読んでいて、「あんたはまだ水のままやで」と言われた気がしました。つまり、「あんたは、自分の都合の良いように信仰をしてるだけやで」とイエス様の御叱責があるように思うのです。

確かに「絶えず祈り、絶えず喜べ」とみことばにあるような生き方をしてないな…と。そう、母の介護にも、覚悟、つまり転換が必要なのでしょう。カネを取られたと言う母を赦し、母のために祈る事ができたら、ホントのぶどう酒、しかもとびっきりのぶどう酒に私は変えられる、そう思わされたんです。覚悟とは、イエス様のみ信じることですね。

番組「恵子の郵便ポスト」2/25より
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私の信仰は、「しるしを見たから信じる」になりかかっています。

イイススは使徒派遣にあたり、病を癒し、悪霊を追い出し、死者をよみがえらせる権能をお授けになりました。現在、儀式としては連綿と続いていますが、権能が宗教、司祭、牧師に代々受け継がれているかというとどうなのでしょうか。形式的になっているとは思いませんが、御言葉に権能が加わるように求めるのは間違っているのでしょうか。中風の人、娘を亡くした会堂司、出血の止まらない女性、二人の盲人、口のきけない人、この人たちもイイススの教えを神の言葉と信じたからしるしを見たのであって、私のように疑問を持つ人には示されないかもしれません。この人たちはしるしを見たから信じたのではなく、信じていたからこそ救われたのだと思うのですが、会堂司の娘はイイススを信じていたのでしょうか。

私の信仰は、しるしを見たから信じるになりかかっています。見ないで信じるようになりたいと願っていますが、それが揺らいでいます。それにしても、権能を伝えようとしなければ伝わらないと思います。しかし、偽預言者もしるしを見せるとありますから、しるしを見たから信じるのはやはり間違っています。次のガイドと聖書通読表をお願いします。

番組「Echo of Voices」2/17より
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