リスナーの声2

神様の業、時に叶って美しいのですね。

先日、私の叔父が突然の事故で亡くなり、父が笑いながら(ショックで、悲しくて)連絡してきました。教会で「小さな歌の会」として個人に歌のプレゼントをする前日に聞かされ、心が揺れました。曲は「ブラームスの子守唄」「いのちの歌」など。泣いたら歌えんと思ってのぞみました。けれど、天国に近いであろう人々に対しても歌って、と希望され、かえって叔父を想いながら歌うことが出来、悲しみは愛なんだと伝えられたように思います。不思議なタイミングでくれた神様の業、時に叶って美しいのですね。


生かされていると思い知り
再び信仰を求めるように…

私は25歳の時「イエス様を信じます」と告白した後、教会に行ったり行かなかったり、イエス様に背を向ける生活をずっとしてきました。

今年の1月に夫が脳出血で倒れ、突如、要介護5の状態になり、日常が一変しました。夫はその3か月前に心臓の手術をし、ようやく落ち着いてきた矢先でした。また以前にもぎりぎり命が助かった事があり、なんて運の強い人だと思っていたのですが、今回のことで、生きているのではなく生かされているのだと思い知りました。

再び信仰を求めるようになり、仕事で教会に行けないためティールームの助けをいただいて聖書を読めたらと申込みました。「少なくとも5回は読みましょう」とガイドに書かれていました。今まで5回も読んだ本はありません。でもこの講座を続けられたらヨハネの福音書を5回読んだことになると思うと、まだ実行もしていないのに感慨深い思いになります。まだまだ聖書の文字を追うだけで精一杯ですが、神様が御言葉として聴けるようにしてくださることを信じて続けられたらと思います。


今、気が付きました
この人は私だ!

ヨハネ5章。ベトザタの池で38年病気だった人は、「池に入れてくれる人がいない」とか言い逃ればかりして、彼がユダヤ人に告げ口したせいでイエス様の迫害が始まります。ベトザタには病の人が大勢いたのに、イエス様はなぜこの人をお助けになったのでしょう?

何度も読んで、ここまで書いて、今、気が付きました。この人は私だ!

私はすぐ神様から離れ、祈ることも賛美することも忘れ、卑屈になって自分の殻に閉じこもってしまう。そして人をすぐ裁いてしまう。今も、イエス様に癒やされたこの人を裁いていました。でもそんな私を主は諦めず何度も呼んでくださり、なんでこの人を?と思われるような私を、主は救ってくださいました。

私は病で教会に行けなくなり、奉仕や交わりもできなくなりました。でもオンラインで礼拝に参加できるようになり、少しずつ体調が落ち着き、今日は久しぶりに礼拝に行けました。感謝です。


とても違和感のある説教をする先生がいます。

わたしの教会は複数名牧師先生がいらっしゃいますが、その中で、いつもではないですが、とても違和感のある説教をする先生がいます。

その内容は、「みことばにしたがって生きなさい、聖霊にみたされなさい、あなたが職場で尊敬されるような言動をすることによって、まわりの方がキリスト教は、聖書はすばらしい、教会にきてみたいと思うんです。」というものです。誤解があるかもしれませんが、わたしにはそう聞こえます。 

なるほど、教会の主力メンバー、役員などは、わたしの所属教会でいうと、ほとんどが一流大卒、一流企業で立派な地位にあり、どこに出しても恥ずかしくないような方です。教会の仕事も良くできて、言動も問題なく、経済力もあるので献金も多くしているでしょう。

でも、そうでないクリスチャンもクリスチャンだと思います。聖書で、信仰で「救われた」、それを命綱で生きているかどうか、だと思うのです。


天の国で罪人は投げ捨てられる?

マタイ13章、毒麦のたとえ。世の中には良い麦と毒麦があって、毒麦は焼かれるものだと。
ここで「燃え盛る炉に投げ入れる」とされている「つまづきや不法を行う者たち」とは、罪人たる私たちのことだと思います。キリスト教とは、その私たちに代わり、罪なき御子が十字架で贖罪したことから始まっていると考えていた私にとっては、衝撃的な内容でした。むしろキリスト教に接する前の私は、正しい者が救われ悪は滅びるという考え方がしっくりきていました。そうではないはずのキリスト教を学び始めた者にとって理解に苦しむ箇所です。

14章で、恐れて信じ切ることができなかったペトロは「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と責められており、弟子たちですら「正しい人」にはなり得ないのです。私自身ももちろん。ただ、そうであることに真向い、その一切を神に委ねて生きていきたいと思っています。天の国で「投げ捨てられる」ことはないのでは?と信じつつ。の時にこの章を読んだのも決して偶然ではない気持ちがしています。


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