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「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。
だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」

多くの人に愛されるヨハネ福音書12章のこの言葉。
しかし、その直後には次の言葉が出てくる。

「この世で自分の命を憎む…。」

一粒の麦と、自分の命を憎むこと。
この二つがなぜ結びつくのかと思って、麦を探す旅に出た。

取手から下館を南北に結ぶ関東鉄道常総線の沿線には麦畑がところどころ広がる。
一両編成の列車に響くディーゼル機関の音。
東京からそう離れていないのに、旅情を掻き立てる。


宗道駅で降りて、隣の下妻駅までの間にある麦畑を目指してしばらく歩くことにした。

遠くには筑波山。
土の香りとカエルの鳴き声に包まれながら歩くと、麦畑が広がる一角に出た。



わあ。


広大な麦畑はまるで動物の毛のようだった。
風が吹くと一斉にさらさら音をたてながら靡く。

イエス様が見ていた麦畑もこんな感じだったのかもしれない。
自然と人の営みの織りなす豊かな光景に、イエス様は何を見たのだろうか。


それはあの御方しかないと思った。
イエス様がよく語っていた「わたしの父」以外には。

そう思うと一粒の麦の言葉は、歌のように思えた。
だからこそ「この世で自分の命を憎む」という言葉が胸を締め付ける。


なぜなら、これは自分を捨てて離れていく者への歌。
イエス様が見た、父なる神の姿。
そのラブソング。


ヨハネによる福音書12章24〜26節

はっきり言っておく。
一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。
だが、死ねば、多くの実を結ぶ。
自分の命を愛する者は、それを失うが、
この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。
わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。
そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。
わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。