8-01:写真で味わう「旅の音、心の音」10

私の飼い主・千葉マザー牧場

リフレッシュのため、今日は家族と千葉県富津市にあるマザー牧場にやってきた。
柔らかい新緑と空とネモフィラの青色。


そこに、もこもことした羊がやってきた。
皆好き勝手に、草をもぐもぐと食べている。
餌やりができるということで、買い求めた餌を手に載せて差し出すと、2匹の羊がやってきた。
我先にと、お互いを押しのけながら餌を食べる。
そして食べ終わるとすぐ、またそれぞれ牧草を食べはじめる。


聖書、特に新約聖書にとって羊は決定的な意味をもつ。
そんな羊を眺めながら、今日の聖書日課をふと思った。
ただし、ここには羊は登場しない。
出てくるのは、徴税人マタイと神の小羊イエス様だ。

ローマ帝国の支配下にあったイスラエルで、ローマへの税を徴収する役目を負った徴税人は、もちろん、人々から忌み嫌われていた。
そんな一人であるマタイへのイエス様の第一声が「わたしに従え」だ。


実は、この羊という動物はどうやら「従う」ことが苦手のようだ。
眼の前の羊を見るとよく分かる。譲り合ったり協調したりということは一切ない。
勝手気ままに草を食べている。


しかし、マタイはちがった。
すぐ自分の職場を離れイエス様に従っている。
マタイはその理由を福音書では語っていない。
何があったのだろうか?


このあとで、アウトサイダーばかりのマタイの家の宴席で、イエス様はこう言っている。

「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」

人々から蔑まれ、おそらくは自分でも自分を認めることができなかったマタイにとって、この言葉はどんなふうに響いたのだろう。
彼の癒しがたい傷に、この言葉は届いたのだろうか。


しばらくすると、牧場のスタッフが羊飼いさながらに200匹ぐらいの羊を誘導するショーが始まった。山の斜面を、たくさんの羊が土埃を上げながら降りてくる。それなりに迫力があるが、ふわふわしたその姿から、どこか緊張感がない。


その姿を見ながら、不思議とイザヤ書53章の言葉が響いてきた。

 苦役を課せられて、かがみ込み
 彼は口を開かなかった。
 屠り場に引かれる小羊のように

小羊になられた大牧者。
神の小羊こそ、私の飼い主。
にぎやかな牧場で青空を仰いで、そう呟いた。


マタイによる福音書9章9〜13節

イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

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