
良き御方のいるところ・千葉竹岡の海と空
晴れた夏空が広がるある日、千葉県を走るJR内房線に乗って小さな旅に出た。
太平洋と東京湾の出入り口に近い海に面した竹岡駅だ。
以前、車窓から見た改札の先に広がる海が印象的だったからだ。

ガラス張りの待合室が特徴的な簡素な駅舎。
その出入り口から延びる坂道の向こう側に、見たかった海がキラキラと光っていた。

海の色は、手前がエメラルドグリーン。
遠くはネイビーブルー。
今日は風が強く、白波が立っている。
東京湾の向こう側は霞んでいて見えない。
その中を一隻の赤い貨物船が進んでいた。

駅を出て、海の方に向かう。
やがて漁港が見えてきた。
近くの木陰に腰を掛けて、いつものように聖書を開いた。

さあ、今日はここでイエスさまの語りかけを聞きたい。
マタイ13章の天国のたとえの箇所だ。
そう思って聖書に目を向けると、今日の海の沖のように急にもやもやしてきた。
世の終わりに正しい人と悪い人を選り分けて、悪い方は燃え盛る炉に投げ込まれる…。
まるで地獄のような様(さま)である。
これが、イエス様の天国なのかと改めて思った。
しかも、弟子たちは、この話を「わかった」と答えている。本当だろうか?
これは地獄ではなく天の国なのだ。

さらにイエス様はこう結んでいる。
「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」
「だから、一家の主人のようだ」と言われても、気持ちがついていかない。
それは、先ほどの地獄のような話を聞いて、自分はどこか恐れているからだと思った。
そう、炉に投げ入れられる側としてだ。

そこで、ようやく気がついた。
これは場所の話ではなく、話の全体がイエス様のことではないかと。
悪い者の身代わりに、真っ先に炉に投げ入れられたのは、他ならないイエス様。
悪い者として捨てられるのを恐れる私たちのところに来てくださった御方。
ああ、確かにここに神の国があると感じた。

風は変わらず強く吹いている。
しかし、その暖かな風には、潮の香りの中にほのかに甘い花の香りも混じっていた。
だからだろう、少し柔らかい。

ふと、ガリラヤ湖に吹く風を思った。
そこで、イエス様はどんな声で人々に語りかけていたのだろうか。
竹岡の空と海の青さの中に、この世界を活かすイエス様の御心が溶け込んでいるように感じて、天を仰いだ。

マタイによる福音書13章47〜53節
また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」イエスはこれらのたとえを語り終えると、そこを去った。







