ぶどうの実のゆくえ

ヨハネ15章6節
「わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。
そして集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。」

今朝こころがとまったのは、「まことのぶどうの木」である、主イエスが、
この木につながっていない枝はこうなる、と告げられた箇所です。
え、焼かれてしまうの…?と。
私の中では地獄や破滅、裁きなんかのイメージと、そのまま結びついているところでした。
そしてもう一箇所。

ヨハネ15章8節
「あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、
それによってわたしの父は栄光をお受けになる。」

うーん。父なる神様は栄光そのものであるはずなのに、
私達が実を結ぶことで栄光を受けるとは、
一体どういうことなんでしょうか。
父なる神様が、なぜご自分でぶどうをお育てになる必要があるのだろうかと、
しばらく、思いを巡らせていました。

なぜ農夫は苦労して、ぶどうを育てるのだろうか。
単に育てたいから?見て楽しむ?
でもやっぱりそれは、実を食べるためだと思うのです。
それはきっと、神さまの祝宴に饗するためではないかと思うのです。

かつてイザヤ25章6節で預言された、裁きの後の世界の話。
「万軍の主はこの山で祝宴を開きすべての民に良い肉と古い酒を供される。
それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。」

この実はもしかしたら神様に摘まれて、絞られて、熟されて、
お酒になってゆくのではないでしょうか。
神さまがご用意されたこの酒宴。そこでみんながこの味を喜び、繋がっていく。神さまの前に一つとなってゆく。
改めて読むと、この聖書箇所には、「すべての民」って書いてあるんですよね。

ヨハネ15章16節
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。
あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、
また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、
わたしがあなたがたを任命したのである。」

もはや主によって、全ての枝が実を結ぶように整えられている。
だってこれは、普通の木では無い、まことのぶどうの木ですから。

イエス様が伝えたかったことは裁きではなく、
救いの招きそのものだったんだなあと今回は新しく感じました。

天の祝宴の光景を今、思い浮かべています。

(新人N)


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