1/5人間の「善」を超えて


イエスの、ことばの、その根—雨宮神父の福音書講座(再)
雨宮 慧(カトリック東京教区司祭、上智大学神学部名誉教授)
お相手:長倉崇宣
2022年1月14日放送
第4回「『人を裁くな』—自らの限界を知った者にとってのイエスの新しさ」ルカ6:27~38、ほか

FEBC月刊誌2022年1月増刊号記事より

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人はどうして裁くのか

今回は「人を裁くな」という教えを、毎日人を裁いている我々がどうしたら実行できるのか、考えてみます。

 

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二本の柱 D1とD2

31節と36節を直訳すると、以下の通りとなります。

31 人があなたがたに行うようにとあなたがたに望むとおりに、そのようにあなたがたは人に行いなさい 

36 あなたがたの父が慈悲深いとおりに、あなたがたは慈悲深くなりなさい

同じ構文がこの二箇所にだけ使われていて、今日の箇所全体の「2本の柱」になっており、これで3つの小段落に切り分けられると考えました。

第一小段落 ①

ここでは、「愛する」ことが、「親切にし、祈る」という行動を生み出し、更に「頬を差し出す、下着をも拒まずに与える」と深められていって、最後は「求める者には、だれにでも与えなさい」となっています。ですから、キーワードは「愛する」と「与える」で、愛することが純粋になっていくと、与えることになっていくのだと言いたいのだと思います。つまり、27~38節全体のテーマは「愛することは与えること」です。

第二小段落 ②

この段落のテーマは5回も出てくる「愛する」です。その上で、32~34節では「罪人」という表現が繰り返され、35節は「しかし、あなたがたは」と始められます。ですから、ここでの「罪人」は悪いことをした人の意味ではなくて、「あなたがた」の反対で、言わばイエスに従う気のない人の意味ではないかと思います。つまり、彼らもそのくらいの愛することはやると言っている訳です。よって問題になるのは35節以下の「あなたがた」つまりイエスに従おうとする人々は、「罪人」の段階で終らず、敵を愛することによって、神の子となるんだと言っているのです。

第三小段落 ③

ここでは「人を裁くな、そうすれば…」のように同じ構文が続き、「与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる」で終わっています。続く「押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる」の「入れてもらえる」も原文では「与えられる」の意味で、ここのキーワードは「与える」であると言えます。つまり、「あなたがたにも与えられる」の与えられ方が尋常ではないと言いたいのだと思うのです。 

さらに最後を結ぶ言葉「あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである」は、非常に重たい表現です。というのは、「量り返される」と受動形が使われましたが、量り返すのは一体誰でしょうか?直前の「入れてもらえる(与えられる)」と同じく、これは神的受動形と言い、神という言葉を口にしないで行為主体が神であることを表す修辞法です。 

つまり、この神が重要なのです。第一小段落①と異なり、第二②・第三小段落③では、神を表す表現があります。 

特に、「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」(31節、D1)は誰もが認める黄金律とも言われるものですが、一方で神の存在が意識されていません。しかし「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」(36節、D2)では、神を登場させています。

全体を見ると、①で「愛することは与えること」というテーマが提示され、②のキリスト者の求められる「愛すること」は、③では神的受動形で「与えること」として説かれ、さらに二本の柱(D1,D2)によって、人間の思いだけで神を認めなければ、幸いな生活には至ることが出来ないと教えようとしたのだと思います。つまり、私たちが、やってはいけないと分かっていても、人を裁いてしまうのは、神が我々の視野から消えているからだということになります。

 

 旧約の視点: イエスの必要性を最も分かっていた人たち 



長倉 

そう言われても、「悪人にも、情け深い」神様自体が、人間には受け入れ難いような気がするのですが…。 


雨宮 

そうですね。確かに、この箇所では私たちの状態は一切条件になっておらず、これはそもそも旧約聖書には無い考え方です。例えば、 

主は主を畏れる人を憐れんでくださる。 

主の慈しみは…主を畏れる人の上にあり (詩編103:13、17) 

主の憐れみ、慈しみは、主を畏れる人に与えられ、悪人にではないと言っている訳です。



長倉
 

条件付きなのですね。 

 


雨宮 

そうです。しかし、新約聖書では何故無条件なのか?そこで、新約の前提となった旧約の特徴を今一度見てみましょう。 

あなたを憎む者のろばが荷物の下に倒れ伏しているのを見た場合、それを見捨てておいてはならない。必ず彼と共に助け起こさねばならない。 (出エジプト23:5) 

誰でもろばが荷物の下に倒れていたら、助けなきゃと思う。しかし、それが敵のものだと気づいたら踵を返してしまうのが我々の現実なわけです。敵に何か良いことをするのは難しい。ただ、敵のろばだったら何かしら出来る。つまり、それは敵と和解するチャンスとなるということを教えているのだと思います。 

つまり、旧約聖書の人たちは、敵との関係をそのままに放置していてはいけないということは分かっていたということです。ですから、人間の現実をしっかりと踏まえているのが旧約聖書の魅力です。「出来ないことは出来ない」ことを認めた上で、やらなければいけないことがある。ならば、どういう条件だったら出来るだろうかということを考える。言い換えれば、「イエスという存在を知らない人間」の現実が書かれていると言えるでしょう。ですから、イエスの必要性を一番良く分かっていたのも、また旧約聖書の人々なのだと思います。 

イエスの存在が作り出した「20対116」 


雨宮
 

このことは、「愛」と訳される「アガペー」というギリシャ語の言葉が聖書で使用された回数からも見て取れます。紀元前2世紀頃にギリシャ語に翻訳された旧約聖書(七十人訳)でのこの言葉の使用回数は、20回しかありません。しかし、新約聖書では116回です。もちろん、新約の時代になって、急に人間が愛することができる存在になった訳ではありません。人間はいつの時代もどうしようもない存在なのでしょう。だとすると、こう言わざるを得ない。純粋で裏切ることのない愛を、新約聖書の人々はイエスの内に見ているのだと。私も説教では「愛」という言葉を平気で使いますが、日常ではほとんど使いません。ちょっと恥ずかしいからです。それは何故か?それは、汚れた愛だからす。しかし、イエスという存在の中に、本当に純粋な愛を見たことが、この116回という数字に表れている。ですから、新約聖書の新しさというのは、イエスの存在が創りだした新しさということになるのだと言えます。

 (文責・月刊誌編集部)

 



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