5/6 人間という現実

罪人の頭たちの聖書のことば 
石垣弘毅(日本基督教団中標津伝道所牧師)お相手・長倉崇宣
5月4日、11日(水)放送「『わたしが求めるのは憐れみ』―人間の現実を見つめる主イエス」詩編6編、マタイ9:9〜13

FEBC月刊誌2022年5月記事より

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主よ、憐れんでください
わたしは嘆き悲しんでいます

主よ、立ち帰り
わたしの魂を助け出してください。
あなたの慈しみにふさわしく
わたしを救ってください。
死の国へ行けば、だれもあなたの名を唱えず
陰府に入れば
だれもあなたに感謝をささげません。

わたしは嘆き疲れました。
夜ごと涙は床に溢れ、寝床は漂うほどです。

主はわたしの泣く声を聞き
主はわたしの嘆きを聞き
主はわたしの祈りを受け入れてくださる。
(詩編6:3a、5~7、9b~10)

 「死の国」から始まる6節に私は惹かれるんですよね。現実を醒めた目で見ている気がするからです。「今ここであなたに出会えなかったら、いつあなたに出会えるのか」と、どこまでも現実に自分の軸足を置いて、祈っている。

 私が神学校に行こうか悩んでいた時、ある神学校の先生が説教で語ったことを今でも覚えています。「神学は、人間学なんだ」とその方は仰る。詩編を読んでいるとそれが分かりますよね。人間の様々な苦しみや悲しみを、信仰の一言で片付けてしまわずに、どこまでも人間の現実に立ち続けていく。だから詩人は、このように祈りを捧げることができるんじゃないだろうかって。そして、止むことのない苦しみの只中で、「主はわたしの祈りを受け入れてくださる」(10b節)と、なお祈るのではないでしょうか。それは、人間の現実に立つことにこだわるということかも知れません。

イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。
(マタイ9:9) 

  さらにマタイによる福音書を見てみましょう。ここではマタイは、自分の行いが律法違反だという自覚もあったでしょう。でも、罪の現実から離れたくても離れることが出来ない、そうしなかったら生活出来ないからです。私たちは大抵そういう現実を見ては、「ああはなりたくない」と思う。こういう場所に座らないでは生きていけない人の悲しみや辛さを見ようとしないんです。しかし、主イエスは違った。

 だから私は、収税所に座るマタイの心を思い巡らした時、「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。…わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」(ローマ7:19、24)と嘆くパウロの告白を思い起こしました。主イエスは、このマタイの心に目を注がれたんじゃないでしょうか。

—「『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。」とも主イエスは仰っておられますね。

 そうです。私たちが信仰をどこで学ぶかと考える時、まずは教会に行くことをイメージしますよね。しかし、ここで主イエスが「行って学べ」と仰るのは、罪人のところです。福音を知るのはそこなのだと仰る。人間の弱さ、つまり罪人の現実があるところでしか、神の愛は学べない。

 イエス様は十字架に架けられる前に、「父よ、この盃を私から取り除けてください」と祈られましたよね。あの祈りも、一人の人間として、嘘偽り無く、罪人の現実を受け止めたからこそ、そう願われたんだろうと思う。神を信じて生きるっていうのは、そういうことです。だから、この詩編の嘆き疲れるような祈りに、深い霊性を感じています。

 (文責・月刊誌編集部)

 


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