罪人の頭たちの聖書のことば
石垣 弘毅(日本基督教団中標津伝道所牧師)お相手・ 長倉崇宣(FEBCパーソナリティ)
9月7日、9月14日(水)放送「『わたしを苦しめる者を前にしても』―わたしの羊飼いの真意」詩編23、マタイ28:16~20
FEBC月刊誌2022年9月記事より
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1.【賛歌。ダビデの詩。】
主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
2.主はわたしを青草の原に休ませ
憩いの水のほとりに伴い
3.魂を生き返らせてくださる。
主は御名にふさわしく わたしを正しい道に導かれる。
4.死の陰の谷を行くときも わたしは災いを恐れない。
あなたがわたしと共にいてくださる。
あなたの鞭、あなたの杖
それがわたしを力づける。
5.わたしを苦しめる者を前にしても
あなたはわたしに食卓を整えてくださる。
わたしの頭に香油を注ぎ
わたしの杯を溢れさせてくださる。
6.命のある限り
恵みと慈しみはいつもわたしを追う。
主の家にわたしは帰り
生涯、そこにとどまるであろう。
(詩編23:1〜6)
―愛唱しておられる方が多い詩編ですよね。
はい。だからこそ丁寧に構造的に見るところから始めたいと思います。
最初と最後の段落は素晴らしい世界が描かれています。けれども、それに挟まれているものは、「死の陰の谷を行くときも」(4節a)であり、「わたしを苦しめる者を前にしても」(5節a)であるのです。そこには、まるで天国と地獄のような違いがある。ですから、詩編23編は決して理想の世界を語っている訳ではないのです。むしろ、この詩人の現実は、この部分にあらわれているのではないでしょうか。雨宮慧神父様は、両端から対象的な構造になっている時には、その中心に柱があるとよく仰います。そう考えると、この詩編23編の中心は「あなたがわたしと共にいてくださる。」(4節b)となる。
それでは、私たちが「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」(1節)と口ずさむ時はどんな時でしょうか。それは、仕事や健康・人間関係が上手くいった時かもしれません。しかし、ここではすれ違いが生じて互いに裁き合い、すなわち「苦しめる者を前に」もがき苦しむ中で、「あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖 それがわたしを力づける。」という信仰告白を体験しているのです。つまり、この時にこそ、冒頭のように「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」と聖霊によって喜んで讃美させて頂けるのではないかと思うのです。むしろ欠けている者こそが、この詩編を讃美出来ると言える。
とくに「わたしを苦しめる者」(5節)とあります。実は、それって案外自分の一番近くに居たりするんですよね…例えば家族や夫婦も例外ではありません。そして、それ以上に自分自身が「わたしを苦しめる者」になり得るのです。自分で自分を受け入れられない。こんな自分は最低だとしか思えない。これはまさに地獄です。しかし、「わたしを苦しめる者を前にしても あなたはわたしに食卓を整えてくださる」と御言葉は語る。つまり、私たちはその地獄の頂点でこそ、この御言葉を聴くのだと思う。「死の陰の谷」―お前はもう生きている価値がないと自分に対して死刑判決を出してしまうような場所で。しかし、この詩人はその裁きを恐れません。それは「あなたがわたしと共にいてくださる」からです。これは、ただ単に私の横で「大丈夫だよ」と語りかけてくれるからじゃない。私が受けなければならない十字架の苦しみ。それを主イエスが私の一番近くで受けて下さった!それに気付いた時に、「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」という御言葉は、私にとって真実な言葉になるんじゃないでしょうか。
◇
さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。 そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。
(マタイ28:17)
イエス・キリストの福音って何なのかと考えた時、ここで「十一人の弟子たち」と書いてあるのが気になるんですよね。本来、弟子は十二人。でもここで敢えて「十一人」と書くことによって、イスカリオテのユダがいないことが見えてきます。自分がしたことを悔いて、自らに死刑判決を下して、神に代わって自らを裁いて亡くなったユダです。
でも、「わたしを苦しめる者を前にしても あなたはわたしに食卓を整えてくださる。」(詩編23:5)を読んだ時、自ら命を断つという苦しみを自らに課したユダとも、イエス様は共に十字架についていて下さると思えてくる。
「わたしを苦しめる者」は、ユダにとってはユダ自身だったと思うんです。もう取り返しの付かないことをしてしまった自分。この自分を前にしても、しかしイエス様は共にいて下さることをやめない。私たちが全ての人に語り伝えているのは、このイエスです。「わたしを見なさい」と自分自身を開きながら。それは決して「イエス様を信じたら、こんなに仲良く幸せになれますよ」というのではないでしょう?「私たちはこんなだ。家族も教会もこんなだ。けれども、こんなに欠けている私たちともイエス様はいつも一緒にいてくださる。命のある限り恵みと慈しみは私についてくるんだ。だから、主の家に一緒に帰ろう」と呼びかけることが、このイエス様において許されているのです。
(文責・月刊誌編集部)
