立ち帰れ。最初の者に。それは、憐れに思って近寄ること。

私を啓く聖書のことば 
雨宮 慧(カトリック東京教区司祭、上智大学神学部名誉教授)
3月10日(金)放送 第6回・最終回「万物の目標—旧新約聖書を貫く、十字架のイエス」申命記30:10~14、コロサイ1:15~20、ルカ10:25~37

FEBC月刊誌2023年3月記事より

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福音書●ルカ10:30~37

 「善きサマリア人のたとえ」として知られるこの箇所は、「追いはぎに襲われた人」(30、36節)の内側に「道の向こう側を通って行った」人と「介抱した」人が置かれている構造になっています。その中心には、33~34節の「その人を見て憐れに思い、 近寄って」があり、これが道の反対側を通ってしまわずに介抱する人になるための条件として描かれていると思います。つまり、行動に直結する「憐れに思う」は、単なる「かわいそうに思う」ことではありません。ここでは、行動によって隣人となっているからです。そして私は、この「同じようにしなさい」とイエスに示されたサマリア人こそがイエスご自身だと思います。そうでないと、この箇所の真意は分からないからです。



第1朗読申命記30:10~14


「心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主に立ち帰るからである」(申命記30:10)の立ち帰る(シューブ)というヘブライ語は、1~10節までに7回も使われている一方で、11節以降には一度も出てきません。ですから、10節までは、11節からとは書かれた時代が違って、後のバビロン捕囚期と言われています。
 申命記の精神は、「聞け、イスラエルよ」(6:4)ですが、それゆえ日頃から神の言葉を語り聞かせ、心を用いて記憶に留めていれば、それを行えるとなりがちです。しかし、申命記30:1~10の「立ち帰る」と結びつくと、全く違った意味合いを響かせるのではないでしょうか。つまり、14節の「あなたの口と心」とはただの口と心ではなく、6節の「心に割礼を施された者の口と心」なのであり、11節以後のような人間の可能性を強く信頼していた言葉は、10節までの捕囚時代の言葉と結びつくことによって、この箇所に隠されていた真の神の呼びかけを顕にし、新約にまで至るのです。


第2朗読コロサイ1:15~20


〈直訳〉
15-16a 彼はある 見えない神のかたちで
 全ての被造物より前の最初のもの
 というのは 彼において万物が創造された

18b-19 神はある 初めである
 死者の中から最初のもの
 彼が全てのことにおいて第一のものとなる
 ように
 というのは 彼において喜んだ


 同じ言葉が繰り返され、神の計画を担う御子の姿が、15節からでは神の創造の業との関連で、18節からでは神と万物との和解との関連で描かれています。つまり「御子の中にある」ことを失うなら、被造物は存在の意味を無くします。これは教会も同様です。ですから、損なわれてしまった万物の創造の秩序を取り戻すため、神は御子を十字架の上で死なせました。御子の十字架の血にこそ神の創造の思いがあらわれているからです。イエスの死という出来事を離れては、万物はありえないことを表すのです。

 (文責・月刊誌編集部)

 



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