互いの悲しみを知る先に出会う神

交わりのことば―渇望こそキリストの平和 
伽賀 由(日本メノナイト教会協議会日本メノナイト帯広キリスト教会牧師)
お相手・長倉崇宣(FEBCパーソナリティ)
10月28日、11月25日(土) 第3回 エフェソ2:11~22

FEBC月刊誌2023年11月記事より

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しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、 十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。
(エフェソ2:13~16)


 この箇所は1章と3章のパウロの祈りの間に挟まれていて、平和を求めることが祈りそのものだと気付かされるところです。ですから、平和という問いに向かい合うには、そうでないこの現実の中で「神様、どこにいらっしゃるんですか!」と神を問うような真剣な向き合いが、不可欠だと思っているんです。そして今、東ヨーロッパでの紛争が地球全体に及んでいます。こういう時だからこそ、パウロが「心に留めておきなさい」(2:11)と語る言葉を通して神様から問われていると思いました。だから、ここから神を問い、平和を問う。きっとその時には、自分の視点とは全く違う、神様からの視点で御言葉を示されることが必要なのだなと思っています。



 このパウロの鮮やかな対比!しかも、「キリストの血によって」だと言うんですね。さらにここは完了形で書かれていますから、何かグッと強い勢いで、この13節から14節に向かっている感じがするんです。あなたは十字架で贖われた血潮によって、近い者となったじゃないか!って、そんな思いを受け止めたいです。




 以前、韓国や中国など北東アジアのクリスチャンと、聖書的な平和を考えるプログラムでお会いした時、実は最初は居心地が悪かったことがありました。アジアの国の人々と私たちの関係は、やはり先の戦争の中での関係を抜きには始まらないですからね。でも、分かち合い、共に祈り、互いに嘆きの涙を流す中で、少しずつギクシャクした感じが取り除かれていきました。


—互いの顔が見えてくるんですね。


 はい。以前に恩師から「伽賀さん、お互いに顔を見て会わないと、和解っていうのは始まらないんだよ」って言われたことがあって、その時はわかっていたつもりだったんですけれど、でも実際に、相手とお会いして、相手の方だけではなく私の中からも「神の正義はどこにあるのか?」という嘆きが出てくるんです。その悲しみや怒りが相手にもあるのだということが、お互いに見えてきたからなのだと思います。でも、それは「キリストの血によって」近くなったからこそです。そういうところにまで互いが降りていって、初めて、関係の修復や和解が与えられる…もうこれは聖霊しかなし得ない働きなんです




 対立する者がキリストの体に一つとされて新しく造り変えられる。それこそがキリストの平和の実現なんですよね。


—そうですよね。「キリストの平和」って、抽象的・観念的だなという思いがどこかにあったんですけれど、実はすごくリアルなんですね。


 本当にリアルです。だからいつも、私たちが福音と呼んでそう信じているものが、実は表面的であったり観念的であったという反省が出てくるのかもしれません。
聖書の平和というものは単に戦争が無いということでなく、それらを超えた調和や心の安心、さらには福祉や健康なども合わさったトータルなものですよね?


 だからやっぱりリアルなんです。これら全ては「キリストの血によって」だと聖書は語るんですから。だから私たちはこのキリストの血による平和を造り出す者へと召されている!


 でも、それは人間にはできないこと、とんでもないことですよね?本来は。それでも、許されている!このことを大切にしたい。そして、この不思議な平和に留まり、ここから歩み出したいと思います。私たち一人ひとりが、キリスト・イエスの十字架の血によって近い者とされ、このエフェソ書の御言葉の出来事に加えられているんですから。

 (文責・月刊誌編集部)

 


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