いちじくの木陰の祈り

暗闇の中の光—ヨハネによる福音書(再) 
藤盛勇紀(日本基督教団富士見町教会主任牧師)
11月8日(水)放送「神があなたを知っている」ヨハネ1:43~51

FEBC月刊誌2023年11月記事より

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イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われた。…フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」(ヨハネ1:43~49)


 一体ここで何が起こったのでしょう。さっきまで「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と小馬鹿にしていたナタナエルが、「あなたは神の子です」と告白しているのです。

 ナタナエルを見たイエス様はこう言われました。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」イエス様は、彼の中にある真実を見抜かれたのです。それは、一見冷めた態度のナタナエルの内にも確かにある、救い主メシアを待ち望む心でした。

 さらにこう言われます。「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」。


◇私を知るお方の発見

 当時、いちじくの大きな葉が作る木陰は、子どもたちに聖書の言葉を教えたり、語らいの場であったり、時には一人で祈る場でもありました。恐らくナタナエルも、人に気付かれることなく、自分だけになる「木陰」があったのではないかと思います。
 そして、私たちは誰もがそのようないちじくの木陰を持っているのではないでしょうか。普段は人々に囲まれて生活し、親しい友だちもいるかも知れません。それでもいちじくの木陰はあります。誰とも一緒にはなれない、誰にも代わってもらえない場所、一人で立たなければならない、深くて低い、自分の中の暗闇。一体自分は何をしているのだろうかと立ち尽くしてしまうところ。それがいちじくの木の下ではないでしょうか。
  しかし、この私を見て、知っていてくださるお方が、ここにいらした。ナタナエルはそのお方の発見に愕然としたのです。


◇自分の再発見

 イザヤはこの救い主の言葉をこう預言しています。

わたしはあなたの名を呼び、称号を与えたが、あなたは知らなかった。わたしが主、ほかにはいない。わたしをおいて神はない。わたしはあなたに力を与えたが、あなたは知らなかった。 (イザヤ45:4~5)

 まさにその通りなのです。私たちは知らなかった。イザヤはその救い主について、さらにこう記しています。

見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ…わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。 (53:2~3)

 私たちは皆、誰もが主を知らなかった。自分が主に知られ、主から名を呼ばれているのにです。この放送をお聴きのあなたは、ご自分で何かを求めて聴くようになったのかもしれません。しかし、私たちが求めるより遥か前から、イエス・キリストは私たちを知っていてくださるのです。ただどこかから見て知っておられたというのではありません。私たちがまだ主を知らなかった時に、主は私たちのために、既にご自分の命を投げ出していてくださったのです。
 このお方に、この私が知られている。それが「神との出会い」という出来事です。自分自身でも見つめられないような深さまで、とことん私を知っていてくださるお方を知る時に、初めて、主に知られた自分を再発見します。その時に私たちも「あなたは神の子です」と告白するのです。

 (文責・月刊誌編集部)

 



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