クリスマス礼拝 全地よ、主をほめたたえよ
青木 豊(日本キリスト教会高知旭教会牧師)
12月24日(日)放送「ここに光がある」ローマ13:11〜14
FEBC月刊誌2023年12月記事より
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「夜は更け、日は近づいた。」(ローマ13:12a)
普通クリスマスに読まない箇所ですが、闇の中に光が輝くクリスマスだからこそ、この御言葉から聞きたいと思います。私どもは今暗い思いを抱えてここにいるからです。
しばしば私どもは「明けない夜はない」と自分や周りを慰めます。人間にはそれしか言い得ないからです。しかし、自然の時の流れを私どもの人生にそのまま重ね合わせることはできません。私たちは自身の人生で明けない夜を時に知っているからです。
「夜は更け、日は近づいた。」
近づくのは「日」、つまり夜明けではなくいきなり真っ昼間が来るというんです。これはこの言葉が自然な時の流れではないことを告げます。そしてパウロは、ここで二つの時を見ている。一つは、過去現在未来と繋がる私どもの時です。だから夜は更けると語るのです。闇が深くなると語る。しかし、もう一つの時があります。向こうからやってくる時、神からやってくる時をパウロは見ている。光輝く真っ昼間が、人間の時を超えて向こう側からやってくるのだと。
だから、続けて彼はこう語ります。
「だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。 日中を歩むように、(中略)… 主イエス・キリストを身にまといなさい。」(13:12b〜14a)
キリストを身にまとう。目を留めるべきは、この「身」つまり、私どもの体、私ども自身です。パウロは少し前の8章でこう語ります。
「“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。」(8:23)
確かに私どもキリスト者は今、キリストの霊をいただいている。けれども、現実はうめきながら生きている。パウロは自身について「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」(7:24)と証するのです。
この罪の体、死に定められた体。
愛し合いたいと願いながら、できないでいる体。
この罪の体に主イエスは、まとわれてくださる。私たちに着物として着られるのは、主イエス・キリストご自身、神ご自身なのです。
「夜は更け、日は近づいた。」
旧約の預言者はこう言います。その日には、もはや互いに神を信じよとは言わない。なぜかと言えば、神様を信じることは当たり前のことになるから。その時には、隣人を自分のように愛しなさいとは言わない。それが当たり前になるから、と。
私どもはそれをすでに知らされている者です。いや、着ている者です。神様が、主イエス・キリストを送ってくださったからです。その主は今、この罪の体に着物としてまとわれてくださる。
これから聖餐に与ります。今、この聖餐に与って、私どもが主イエス・キリストと一つに結ばれてあることを、この聖餐によって味わい知り、クリスマスを祝いたいと願います。
「夜は更け、日は近づいた。」
(文責・月刊誌編集部)