聖餐・預言・神の愛

FEBC特別番組「預言の霊と愛の歌」 
加藤常昭(神学者、日本基督教団隠退教師、説教塾主宰)
12月29日(金)放送

FEBC月刊誌2023年12月増刊号記事より

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 1947年、つまり日本が戦争に負けてから二年経った春。私が18歳を迎えようとするその時、主イエスのお甦りを祝うイースターの主日が参りました。当時私は、日本キリスト教団代々木教会で教会学校の教師をしておりましたが、旧制高校の二年生の終わりのその年の二月に、志を立てて学校をしばらく休み、毎日聖書を読んで祈りながら、伝道者になる決意を神様からいただいたのです。そのこともあってか、イースターの早天礼拝で、私に説教が命じられました。教会の前にある代々木八幡の鳥居をくぐりましてすぐの高台に立ち、朝日によって不思議と赤く輝く一面の焼け野原を見渡しながら、私はヨハネによる福音書第20章に従い、主の甦りを語りました。甦られた主イエスが「マリアよ」と呼ばれたその言葉をまるで私自身の名を呼んでいただいたような思いで御言葉を語ったことを今でもはっきり覚えております。それから75年の年月が経ち、一体何百回何千回語らせていただいたかわかりませんが、おそらくこれが私の生涯における最後の説教になります。

 私は94歳になりました。昨年、緑内障のために突然に視力を失い、今は皆さんのお顔は全然見えません。それで私は随分しょげちゃって、つぶやきも多くなり、これからを自分自身に問うておりました時に、もう二十年を超えるお付き合いかと思いますが、この代田教会の会員の方が、妻のさゆりが召されて九年の記念日に私にカードをくださった。それを信仰の友の一人が代わりに読んでくれると、そこには次のパウロの言葉が記されているだけでした。

「見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。」(2コリント4:18)

 私の愛している一節です。私は90年を超えて生きて、なお自分はこのようにうろたえる愚かさの中にあったかと、少し恥ずかしかった。しかし、それ以上に嬉しかった。この慰めの言葉を聞いたからです。
 見えないものに目を注ぐ。面白い言葉ですね。聖書においては、まず何よりも霊的な事柄を意味します。つまり聖霊の働きが見えるということです。見える目を与えられる。肉体の目はふさがれても。そこで、今朝はコリントの信徒への手紙一を思い起こしておりました。

 コリントはギリシャの大きな港町で、当地の既に大きかったこの教会は、霊的な事柄にとても関心が深かったようです。ですから、この手紙もまた特に霊的な事柄に目を向けています。
 第13章に先立つ第11章で、パウロは聖餐について語りますが、続く第12章で語り始めるのは教会のことです。これは、霊、聖霊の見えない働きが見えるところは、何よりも聖餐を祝う教会においてなのだということです。では、その教会をつくる霊の力とは一体何なんでしょうか。

 パウロはこの12章で、人間の体に耳とか目とか手とか足とかがあるように、各々皆与えられる賜物は違うと語ります。それは、私たちは互いに霊の働きを見つけることを教えているのです。教会には見えないはずの霊の力が見えてくるというのです。そこでパウロはこの第12章で面白い終わり方をいたしました。

「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。」(1コリント12:31)

 これは私は驚くべき言葉だと思います。
 そして続く13章で一番最初に挙げるのは、異言です。コリントの教会の人たちが好んで語ろうとした霊の言葉、天使の言葉のことです。私はこの異言を親しい友人であり恩師であるルドルフ・ボーレン先生がベルリンに住んでおられました時に、現地の教会の夕拝で一緒に聞きました。なるほど、みんなで祈る場面でそれは始まりました。何とも言えない叫びを上げるんですね。ただ、牧師が何か合図を送ったらピタッと止まったんです。私は少し腹を立てまして、聖霊の働きを勝手に止めるとは何事かと思いました。そして残念ながらその教会では通訳がつきませんでした。パウロは異言はみんなにわからないんだから通訳がなきゃ駄目だって言ってるのです。そしてさらにパウロは言う。そこに愛がありますかと。

 続く預言―これは今日の言葉で言うと説教のことですが、パウロはここでも言う。どんなに優れた評価を得ている説教であっても、そこに愛がなければ無意味だと。ずいぶん大胆です。続けて自分自身を捧げる信仰や、持ち物みんな貧しい人に施すような愛のわざさえ、真実の愛がなかったらむなしいと彼は語る。なぜそんな馬鹿げたことをするのかと。そして断言する。愛がなければ全てはむなしい!実に大胆な、しかし誠に見事な言葉です。だからパウロは、そこからすぐに愛とは何かということについて語り始めるのです。

 私は、目が見えなくなってからずっとラジオを聞いています。NHKの第一ラジオ。そこでは絶えず歌を聞かされる。ロカビリーから演歌、歌謡曲など、時々もう退屈して困っちゃうこともありますけれども、しかしなんと愛の歌が多いかと思う。愛の賛美だけじゃありません。挫折や孤独、そして愛を慕うものもあります。
 パウロもここで、教会でしか歌えない愛の讃歌を始める。愛を歌うんです。

「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。」(13:4~5)

 まだ戦争中で中学生だった時、同じ教会に確か岡本くんという名前の友人がおりました。芝居好きで芝居上手な人でした。けれども、ある日プツッと来なくなった。あんなに熱心だったのにと思ったんですが、伝道師の先生が彼の手紙を読んでくださった。そこには、この愛の讃歌を、「愛」の代わりに自分の名前を入れて「私は」とし、その上で全部ひっくり返して書かれていたのです。

 そして自分は教会に行く資格はないとその手紙は結ばれていました。私は彼の思いを今でも忘れない。私こそ、ここにいていいんだろうかとうろたえたからです。しかしパウロは、ここでお前たち誰もできやしないじゃないかと言って教会を詰問してるんじゃないんです。

  パウロはこの続きを第14章で語っています。

「愛を追い求めなさい。霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい。」(14:1)

 信徒はみんな預言を語るんです。神の言葉を語る。これが異言と非常に違うところは「聞いててわかる」っていうことです。では、そこで何がわかるのか。

 それは、もう崩れてしまってどうしようもないと思う人にかける声なんです。くじけて心がへなへなになっている老牧師にかけてくださった声のように。「あなたには目に見えないものが見えるでしょう。立ち上がってごらんなさい」と私こそそう呼びかけられた。

 それは神を語ることです。同じ第14章でパウロはこう言う。

「皆が預言しているところへ、信者でない人か、教会に来て間もない人が入って来たら、彼は皆から非を悟らされ、皆から罪を指摘され、心の内に隠していたことが明るみに出され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、『まことに、神はあなたがたの内におられます』と皆の前で言い表すことになるでしょう。」(14:24~25)

 これは本当に忘れてはいけない、忘れることができない言葉だと私は思います。

 私は金沢で伝道を始めました。金沢っていうのは伝道が難しいところです。それで一計を案じ、教会堂の玄関を開けっ放しにすることにしました。
 ある時に和服の中年の女性が入ってまいりました。大きな声で言うんです。牧師さんはおるか、と。私が牧師ですって出て行きましたら、その方は私の顔をじっと見て、若いと言いました。若くて失礼したなと内心ちょっとイラッときましたけれども、それでもにこやかにお上がりください、何の用ですかと聞きましたら、その方が上がって、たちまちにまくしたてたのは夫の悪口です。もう2時間ぐらい延々と。それで気が済んだみたいで、立ち上がって帰るって言いながら、玄関の方じゃなく、どんどん礼拝堂に入って「神さん、どこにおるん?」とその方は聞いてこられた。神様はどこにいるんだ、と。私はすぐには返事ができませんでした。そうすると、いいの、いいのと言って、説教壇の辺りを指しまして、あの辺ねと言われる。そして、すぐ踵を返して帰っていきました。実はこの方は石川県の別の町の方で、そこですぐに求道を始めたんですね。何を悟ったのかと思いますが、そこで洗礼を受けて、教会の役員になって、良い信仰の仲間になりました。そして私は、この時の「神様はどこにおられるのか」っていう問いは忘れることができないんです。そうだ。我々はそれに応えなきゃいけない。

 私は、よく信徒に伝道してほしいと言います。しかしね、自分で伝道を何もかもやる必要ないよ。伝道っていうのは、神様がおられるところを指すこと。そこで、相手の方が神様に会っていただくことです。あなたは神を知りたいか。神にお会いしたいか。それなら一緒に来てくださいと、一緒に座り、そこで預言つまり主イエス・キリストの赦しの言葉を聞く。赦しを受けるんです。そして、互いに聖餐の恵みを知るようになる。ああ、神様がおられますね、あなた方の中にです。皆さんの中にです。もちろん、御神体があるわけじゃない。牧師が生き神様になって拝まれるっていうわけでもありません。肉体の目が見えなくても、神が見えるように、神の御わざが見えるように語り合う。教会は、キリスト者は、その説教に生きます。その預言に生きるのです。

 (文責・月刊誌編集部)

 


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