御言葉黙想ーイエスのご受難を見る〜マルコ15章から

聴く信仰—「いのち」をいただく御言葉黙想 
山内十束(カトリック・御受難修道会、宝塚黙想の家司祭)
毎週月曜夜9時48分より22分間


 1/29 「⽗なる神の御⼼を⽣きる沈黙 」マルコによる福⾳書15章1~5節
 2/5   「『⼗字架につけろ』と叫ぶ私の⾔葉 」マルコによる福⾳書15章6~15節
 2/12 「元の服で歩む 」マルコによる福⾳書15章16~20節
 2/19 「私達の⼗字架の道⾏き」マルコによる福⾳書15章21~32節

FEBC月刊誌2024年2月記事より

・・・

4ピラトが再び尋問した。「何も答えないのか。彼らがあのようにお前を訴えているのに。」5しかし、イエスがもはや何もお答えにならなかったので、ピラトは不思議に思った。

ピラトは、裁判を開かざるを得ませんでした。
この訴えがローマの統治に関わるとされたからです。

ピラトは、イエスに尋ねます。
「お前がユダヤ人の王なのか」
イエスは、答えられました。
「それは、あなたが言っていることだ」

それは、あなたの言葉であって、私の言葉ではない。

ピラトは、再びイエスに問いかけられました。
「何も答えないのか」

訴えられたことに対して反論や弁明をすることが許されています。しかしイエスは、何も語られない。

ここで黙想したいのです。

イエスを訴えたのは、人間ではなく、父なる神ご自身だから。
イエスは、それを受け入れられたのです。

今、ピラトの前にいるこの一人の男。
その姿は、神に生きる力に満ちている。
ピラトは、それを目にしています。
そして、非常に驚く。

私たちもこのイエスの姿を心に刻み込みたいのです。


12そこで、ピラトは改めて、「それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか」と言った。13群衆はまた叫んだ。「十字架につけろ。」14ピラトは言った。「いったいどんな悪事を働いたというのか。」群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び立てた。

ピラトは、人々が願い出る囚人をたった一人だけ釈放していました。自らの権力と力のために。
ただ、その心の中にあのユダヤ人の王と言われる男がいます。
心から離れないのです。

しかし祭司長たちは、ローマが最も嫌がる人間を釈放するように群衆を扇動します。群衆もそれに気付いて叫びます。
「イエスを十字架につけろ」

私たちは、なぜ神を見失ってしまうのでしょうか。
なぜ信じることをやめてしまうのでしょうか。

「十字架につけろ」

私たちが思わず自らが望まない言葉を口にする時、群衆のこの姿を見つめるならば、イエスという御方が私たちをどのような思いで見つめ、また聞いておられるのかを知ることになるのです。


20このようにイエスを侮辱したあげく、紫の服を脱がせて元の服を着せた。そして、十字架につけるために外へ引き出した。

紫の服、それは高貴な人を表します。
イエスの服は、貧しいものだったのでしょう。
だから兵士たちは、からかいながらイエスに紫の服を着せます。
さらに、そこにあったいばらで冠を編んでかぶせて。

しかし、この兵士の姿に怒りを以て見つめるのが、私たちの黙想ではありません。
イエスの姿から目を離してはならない。

マルコは、その時のイエスの様子を語っていません。
それは私たちが、このイエスを思い巡らしていく必要があるからです。

そこで注目すべきは、
イエスが再び「元の服を着せられた」こと。
私たちも、生きていく中で困難を経験します。
神を信じる中で、時には侮辱、蔑み、裏切りを経験します。

そして、イエスは今「元の服を着られた」。
イエスは、このような出来事を通しても何も変わらないのです。そして、十字架に向かって歩まれます。


27また、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十字架につけた。28*こうして、「その人は犯罪人の一人に数えられた」という聖書の言葉が実現した。…31「他人は救ったのに、自分は救えない。32メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。

キレネ人のシモン。
彼は一生に一度あるかないか、エルサレムでの過ぎ越し祭を祝うためにただ「通りかかった」人です。
それは、自分の思いで起こった出来事ではないということです。
そのシモンに、兵士たちが無理やり十字架を担がせた。

この出来事が、彼の人生を大きく変えました。
さらにはその息子たち、教会へと及んでいった。

シモンの出来事は、キリストの十字架と私たちを結びつけていきます。

ここで福音書から流れ出てくるイエスの姿を静かに見つめたい。

ゴルゴダの丘。
差し出されたのは、早く楽に死ぬための没薬。
それは、人から与えられる死を表します。

しかし、イエスはお受けにはならない。
イエスの死は、人からではなく神から来るから。

十字架についたのは午前9時。
罪状書きには、「ユダヤ人の王」。
高貴な姿ではなく、ただの犯罪人の一人としてイエスはあげられた。

人々は頭を振りながら、イエスを罵りました。誰も十字架を意識もしていないのです。

十字架にかからない賢い生き方。
それこそが、救いだと思って。

「他人は救ったのに、自分は救えない」
「メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい」
いかにも上手に困難をくぐり抜け、結局は自分が良いところに置かれるために、信仰を生きようとしている。

しかし、救いは神から来ます。
だから、イエスは神の救いへとご自分の身を置かれる。

私たちはどうでしょうか?

二人の強盗は、すぐそばでイエスの十字架を見ている。
こんなに近くにいるのに、イエスに気付かない。
これは、私たちの姿なのかもしれません。

栄光は、父と子と聖霊に、初めのように、今も、いつも世々に。アーメン。

 (文責・月刊誌編集部)

 


 月刊誌「FEBC1566」購読申し込みページへ>>