神のグリーフケア

交わりのことば―神のグリーフを見つめて 
岩上真歩子(日本ホーリネス教団久喜キリスト教会牧師、心のケアミニストリー『タリタ・クム』代表、東京都公立学校スクールカウンセラー)お相手・長倉崇宣(FEBCパーソナリティ)
3月23日(土)放送「ルカ24:13~35」

FEBC月刊誌2024年3月記事より

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ちょうどこの日、弟子たちのうちの二人が、エルサレムから六十スタディオン余り離れた、エマオという村に向かっていた。彼らは、これらの出来事について話し合っていた。話し合ったり論じ合ったりしているところに、イエスご自身が近づいて来て、彼らとともに歩き始められた。しかし、二人の目はさえぎられていて、イエスであることが分からなかった。イエスは彼らに言われた。「歩きながら語り合っているその話は何のことですか。」
      (ルカ24:13~17)

聖書、特にこのエマオ途上の箇所は神様のグリーフケアで満ちていると思うんです。

―ここがグリーフケア?

はい。確かに死別でのケアというイメージからすると違いますよね。ただ、神様こそグリーフ(悲嘆)を感じられている。私たち人間を、それは罪のために「神のかたち」である私たちを失ったために。

この箇所は、遮られていた弟子たちの目が開かれてイエス様だと分かっていきますよね。それが最大のグリーフケアでしょう
曖昧な喪失―それは例えば、津波でご遺体が流されたなどで、ご遺体と対面していないからその事実を受け止めきれなくて、グリーフのプロセスが凍結されることです。この弟子たちもそうだったのではないでしょうか。ご遺体はどこにいったか分からない混乱の中に置かれた。その中でトボトボ歩いている。その弟子たちにイエス様から近づかれた。最近思うんですが、人に近づくって難しい。近づいても何も言えない。あるいは距離を取る方が良いかなとか自分のことばかりにとらわれてしまう。これは牧会や臨床の現場でもそうです。だから、このイエス様は真似出来ないなって思うんですね。
しかも、ここでのイエス様はご自身のことを語られているのをじっと聴いている。普通これだけ自分のことを話されたら何か一言と思うんですけど、じっと最後まで聴く。私なら早く良いストーリーにまとめ上げて「本当はあなた達は私のこと分かってるんだよね」って言いたくなる。だからこそ、イエス様が25節で「ああ、愚かな者たち」って嘆いている事って意味がある。弟子たちのことを愛しているからこそ、良いストーリーにはしなかったんじゃないかって。
ここから、この二人にとってこの御方は誰かという問いが変わり始めている。それまではエマオへの道の方を見ていたのが、ここで初めてイエス様の方へ向き直ったのではないかと思うんです。

 (文責・月刊誌編集部)

 


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