十字架という栄光、その重さ

一期一会のみことば 
加藤 智(カトリック・さいたま教区司祭)お相手・長倉崇宣
3月16日(土)、23日(土)放送「十字架という栄光、その重さ」ヨハネによる福音書12章20~33節

FEBC月刊誌2024年3月記事より

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さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。(ヨハネ12:20~33)


 私は仏門に生まれ、聖書に触れたのは成人してからですが、この御方はずっと一緒に生きて下さったように思います。私はこの御方に知られてきたのだと。だからこそ、今日の御言葉は極めて重い。というのは、「一粒の麦が地に落ちて…」のこの死ぬという言葉は、元の言葉では「殺される」と書いてあるからです。


 イエス様を訪ねたギリシャ人こそは、この私だと思う。私も、聖書も何も知りませんでした。お経を読む者だったこの私をイエス様はいわば正客としてくださった。一番大事な者として接してくださった。私において神がなさることを聞いてほしい、と。ドキッとしますよね。こんなふうに語りかけて下さる方は他にいないからです。
ただし、私の方は錯綜する思いでした。それまでの全部を捨てるとなると苦しみがあった。しかし、その自分の思いを破ってくれたのもこの御言葉なんです。それはキリストが死ぬという以上に殺されたからです。私のために、まさに私の罪のために。しかし、キリストはそれをいとわない。その時、私はこれまでの道が私を生かすわけではないと気付いたのです。
私を本当に生かしてくださるのは、キリスト。それは今日の福音の最後の神殿での説教の結びの言葉で語られています。


「今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。わたしは、地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」(31,32節)と。これは明らかに十字架です。

ご自分の一切をもって、この私たちの戸惑いや迷いを全部一緒に、私たちもろともに引き上げる。ご自分の十字架を、私たちの天への階段としてくださるというのです。
私は、この言葉に救われた。素直にキリストに従えない自分の、まさにサタンの誘惑との戦いから救っていただけた。だから、キリストはサタンを追放される。このキリストの言葉に接した時、この方にもう降参するしかないと思ったんです。


 そこでの栄光。この栄光という言葉は、ギリシャ語でドクサ、聖なる輝き、最も尊いものという意味です。しかし、これはイエス様が話されていた言葉ではカボードっていう、「重い、非常に重い、あるいは最も重い」という意味なんです。何か大きな石か何かを思っていただくといいかもしれません。重い石でウンウン言ってるような、人間のそういうような情景。だから、「人の子が栄光を受ける」と受動形で書かれてます。


 十字架は決して、木の棒ではないのです。とてつもない重さ。それは、私たちの罪の重さだからです。天地の初め、最初の人アダムとエバから始まって世の終わりに至るまでの。そして、「私は栄光を現し、再び栄光を現す」というのは、徹底的ということ。それは神が見える姿でということですよね。私たちは、その証言者です。イザヤ書40~55章までの苦難のしもべの姿を、私たちはもう見たのだと。


 私は大学でも教えているのですが、本当にキラキラしてるような若い人たちが、しかし少し話していると、何で私生きてるかわからないと言うんです。それを聞く時、私たちは罪の重さに気づかないと命の重さにも気づかないんだと思わされます。
よく私たちは、教会ではすぐ罪ということを言われて、もうちょっと景気のいい話はないのかななどと思うわけですが、しかし現実には、それをごまかすと、やっぱり命の尊さ、重さにも気付きようがない。嘘を言い続ければ嘘も本当になるって言われたりしますが、やっぱりそれは嘘ですよね。自分の真の姿というものに目を閉じても、幻想は幻想に過ぎません。

だから私たちは、教会で御言葉と聖餐という形でイエス様をいただいている。
なぜなら、聖餐は繰り返し私たちが御言葉である御方をいただくことだからです。神は、ご自分の体を裂いて、血を流して、御言葉を語られる。命がけで。
私たちは命は大事だと言いながら、気付かない。それは、罪の重さも命の重さも知らないからです。

しかし、知らされる時がある。
それがキリストであり、キリストの十字架です。


―その「重さ」と、25節のこの世で自分の命を憎むっていうイエス様の激しさとは繋がってるんでしょうか?


 この憎むっていう言葉は退けるという言葉で、またこの世で自分の命と言われる命はプシュケーという言葉であって、それは私たちがこだわっているような命という意味なんです。さらに次の26節で、「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え」とありますが、この仕えるはディアコノスっていう食卓に奉仕するという言葉です。つまり、食卓で仕えるように細やかに仕える。そのキリストへの小さな奉仕は実は、最後の晩餐を指し示す主の食卓に捧げられます。

こう考えると、ここではこの世の自分の命と永遠の命が対比されていると言えますよね。
神なしに生きていく命に対して、神から与えられる命。やっぱりどこかで私たちは、けじめをつけていくことが求められるでのしょう。しかし、私たちが自分のこだわりの命から自由にされるのは、もうこだわる必要がなくなることによって気付くんだと思うんですよね。
私たちが後生大事にしてしまうのは、それを捨てさせてくれるような大きなものを知らないからです。

私はかつてイギリスの神父さんに、あなたはいつも軽やかに見えるけれど、イエス様と一緒に生きているといいことあるからですかと尋ねたんです。そうしたら、神父さんは笑って、楽だからですと答えられた。忘れられないですね。楽だもんって。

自分の重荷を全部下ろして、じゃあ、イエス様から頂く命は重くないのかと言えば、それはとてつもない重い。しかし、それは何ていうか、私たちが担っていくような重さではなくて、私たちを担っていただく重さなんです。私の人生もそうなんですね。

 (文責・月刊誌編集部)

 


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