ハリストス、助けてください!

【新番組】光、イイススというお方 2 
ゲオルギイ松島雄一( 日本正教会大阪ハリストス正教会管轄司祭)
4月17日(金)放送「3 マルコ9:17~31」 マルコ9:17~31

FEBC月刊誌2024年4月記事より

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霊がイエスを見るや否や、その子をひきつけさせたので、子は地に倒れ、あわを吹きながらころげまわった。そこで、イエスが父親に「いつごろから、こんなになったのか」と尋ねられると、父親は答えた、「幼い時からです。霊はたびたび、この子を火の中、水の中に投げ入れて、殺そうとしました。しかしできますれば、わたしどもをあわれんでお助けください」。イエスは彼に言われた、「もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる」。その子の父親はすぐ叫んで言った、「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」。(マルコ9:20~24)


 多くの人々は「助けて」と言えません。苦しい時、「助けて」ではなく、「何をすればいいですか」と問うてしまう。人に頼ってはいけない、責任は自分で取れ。そう叩き込まれてきた、いわば一人前の人間たる私たちは、「ただ」で自分の救いを引き出そうなんて考えられないのです。「ただ」でもらったら、早く借りを返さなければ、くれた者に頭が上がらない。その思いは、反対に人を助けた時は、心の内に助けてあげたという優越感を生みます。だから、その貸しを反故にされたとき、私たちは怒りに絡め取られるのです。 
 この卑屈と傲慢の間を揺れ動いている私たちには、真の意味で私たちを助けてくださるお方、ハリストス(キリスト)が目の片隅にさえ入って来ないのです。私たちは、そんな袋小路から救い出されなければならない。そのためにまず、神ハリストスに願わなければなりません。自分の内にある信仰、それがどんなにあやふやでも、斜に構えた思いをかなぐり捨てて、自分を投げ出して、ハリストスに「助けてください」とそう祈り願う。そのとき、自分を取り囲んで身動きできなくしていた何かが壊れます。

 悪霊に憑かれた子を連れてきたこの父親は、「助けて!」と願うことができた!この願いは主を動かし、子は癒されました。これは単に病気の癒しに留まりません。神様に願い祈る生き方に、信じられないけれども信じて、身を翻して、飛び込んでいけたという、救いそのものです。

 「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」。この実に虫のいい願いこそが、実は真の信仰への出発点です。そして、今日も真の信仰をいつも一番深いところで支え続けている告白であります。私たちは自分では信仰にたどり着けません。だからこの告白は、ハリストスとの出会いの中で与えられた神様の恵みです。聖使徒パウェル(パウロ)はこう言ってます。

「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。」(エペソ2:8~9)

 正教会の伝えるいくつかの祈りが、この真実を告白しています。信徒の毎朝の祈りの中にこんな祈りがあります。「ハリストス救い主よ、私が願おうが願うまいが、この滅びつつある私のもとへ駆けつけてきてください。私を急いで救ってください。私の不信仰から私を救い出してください。」こんな祈祷文もあります。「私が望んでいようがいまいが、私をお救いください。あなたが正しい人だけを救うのなら、あなたの偉大さなどどれほどのものでもありません。あなたが清い人だけを救うなら、何の驚くほどのことでもありません。」誠に手前勝手な祈りです。人の救いは信仰によるのか行いによるのか、なんていう論争などどっかへ吹っ飛んでしまっている祈りです。しかし、真にまことに爽快ではありませんか!




 

 (文責・月刊誌編集部)